最大の元就軍記にして、戦国期西日本の治乱興亡史の巨編、初の活字化!
陰徳記 上下
 香川正矩・著/米原正義・校訂
 マツノ書店 復刻版
   1996年刊行 A5判 上製函入 計 約1600頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『陰徳記』のこと
■ 本書は、戦国時代から安土桃山時代に至る約百年、西日本を舞台に繰り広げられた、群雄の治乱輿亡史の集大成である。毛利氏の中国制覇を中心とした「元就軍記」としても、最も雄大かつ詳細なものといえよう。

■ 室町幕府十代将軍足利義稙が中央政界の抗争に敗れ、西国への都落ちに世の興廃を感ずるところから筆を起こし、豊臣家五人の大名、三人の奉行が太閤秀吉の遺言を守り、遺児、幼君秀頼に忠節を励む場面で終わる、全81巻である。

■ 著者の香川正矩は、慶長18年生まれの岩国藩家老。『陰徳記』を書くため、既成の文書・記録のみに頼らず、自ら古老を訪ね、また諸国へ物書きを派遣して資料を集めたという。

■ 書名は中国漢代の『准南子』などに見える言葉「陰徳陽報」から、元就の「陰徳」により毛利家の長久、国土安全の基礎が出来たという考えに基づくものであろう。

■ 本編の原本は現存せず、今回の出版は諸写本のうち、毛利家三卿伝編纂所の「山ロ県文書館蔵本」を主に、吉川家に伝わる「岩国徴古館儲蔵本」を参考にした。

■ なお巻末に付録として「関係系図」「関係要図」『陰徳太平記総目録』をつけた。



 『陰徳記』の出版を喜ぶ
   京都女子大学教授 笹川 祥生
 『陰徳記』の存在は、今から三十年ばかりの昔、毛利氏関連の文献を調べているときに知った。始めのうち、それは『陰徳太平記』の原作で、『陰徳太平記』を論ずるために、目を通して置くべき作品だというぐらいの意識しかなかった。しかし、『陰徳太平記』と読み合わせて、ノートを作っていくと、両書は、原作と増補本という単純な関係でないような気がしてきた。そして、両書はそれぞれ、執筆の目的ち姿勢も違う、いわば別個の作品として評価するべきものだ、ということに思い当たった。『陰徳記』は、『陰徳太平記』論究の参考資料にとどまるべき存在ではなくて、香川正矩・宣阿父子の思いには合致しないかも知れないが、それ自体考察の対象となるべき作品なのである。

 基本的な執筆の姿勢の相違は、たとえば記事の取捨選択の仕方の相違となって現れる。文芸芸能に関する記事に限って考えても、『陰徳記』にあって、『陰徳太平記』に見えない記事が少なくない。これは地方における文化の受容のあり方を考える揚合、無視できないことである。また、題材は共通でも、扱い方が異なり、『陰徳太平記』の記事では古風な趣きの薄れていることがあったりする。また、方言や俚諺の例も採集できるし、『陰徳記』にのみ収録されている朝鮮語資料(巻七十六「高麗詞之事」)については、すでに何編かの研究論文もある。紙数の関係上、実例を示して説明する余裕はないが、『陰徳記』から得られる話題は、なかなか豊富である。また、両書は著作の時期と作者が明らかであり、先行文献も成立時期・著者の判明しているものが少なくないから、軍記の変質する過程を考察する場合などでも扱いやすい。

 しかしながら、なんといっても『陰徳記』は大部の作品であり、また、限られた数の写本しか伝わっていない。その昔、山ロ県文書館本を自分で撮影をしたが、随分と時問もかかり、その上、素人写真で、決して良い出来上がりではなく、読むのに苦労したことが思い出される。文書館の人と、どこかの書店から出版されればよろしいのに、無理でしょうね、などど話し合ったことを覚えている。そんな事情もあって、今回の『陰徳記』の刊行は、ほんとうに嬉しい。そしてまだ戦国の余熱の冷めない時期に成立したこの力作を、資料として利用し易くなったことは、文学研究の面からも、大いに意義があり、その普及を期待する次第である。
(本書パンフレットより)



 待望久しい快挙
   県立島根女子短大名誉教授 藤岡 大拙
 このたび、米原正義博士の校注による『陰徳記』が刊行される運びとなったことは、西日本の戦国史を研究するものにとって、実に待望久しい快挙である。とりわけ、我々尼子氏の研究者は、どれほど長い間特ちのぞんでいたことか。山陰地方を語る軍記物語は他地域に比して少なく、わずかに『雲陽軍実記』と『陰徳太平記』が存在する程度である。

 『陰徳太平記』は『陰徳記』の著書、香川正矩の次男景継(宣阿)が著わしたもので、すでに正徳二年(1712)木版本が刊行されており、明治44年には犬山仙之助によづて活字印刷本が刊行されている。その後も出版がなされ、現在は米原氏校注の『陰徳太平記』全6巻(東祥書院)があって、研究者には便利である。
 『陰徳太平記』の原本とでもいうべきものが『陰徳記』で、父・正矩の著を子・宣阿が敷衍した形となっている。ただ、『陰徳太平記』の記述は、中国の故事をふんだんに引用するなど粉飾冗長のうらみがあり、さらに筆者の香川宣阿が主家吉川氏、その主家毛利氏を美化、正当化しようとする意識を強くもっていたので、そのぶん、史実から遠ざかる点なきにしもあらずであつた。

 例えばよく指摘されることだが、陶隆房・(晴賢)が主君大内義隆に反逆したとき、毛利元就は両陣営から誘引されるのであるが、当時の隆房の実力と己の実力を考えて、一応、隆房に誼を通じた。しかるに『陰徳太平記』によると、隆房の誘いを断わり、「八逆罪の者に、誰が一味すべきとて、曾て承引無く、義隆一味の験にとて同七月七日、芸州頭崎を攻られけり」とあって、頭崎城の平賀隆保は陶隆房方となっており元就はこれを攻めて、いるから大内方ということになる。しかし、これは史実と正反対である。『陰徳記』では元就は隆房の弑逆の罪を糺そうとおもったが、力が弱く、義兵を挙げることがてきなかったので、しばらく隆房方に他心のない験を示すため、大内方の平賀隆保を頭崎城に攻め亡ぼした、と事実を述べている。宣阿は、なぜ『陰徳記』の記事を正反対に曲げてしまったのだろうか。それは、元就が反逆者に味方したとの印象を払拭しようとしたからであり、その結果、史実を曲げるという重大な誤りをおかしてしまったのである。
 『陰徳記』の「元就与隆房一味事」の項目も、『陰徳太平記』では削除されている。したがって「時好を追ひ文を飾り、無稽の談を加へたるを以て、正確の事蹟、引用すべからざる俗本となれり、識者正矩の原稿の伝わらざるを憾む」(『三州遺事』)との酷評もあるくらいだ。その識者正矩の原稿こそ『陰徳記』なのである。『陰徳記』も本来、毛利家中心の軍記物語として成立したものではあるが、『陰徳太平記』ほど毛利中心主義でなく、かつペダンティックな故事引用も少ないから、それだけ史実に近い記述といえるだろう。

 長い間、『陰徳太平記』しか閲読できなかった我々にとって、本書の出版は近来にない一大快事である。大内・尼子・毛利の三つ巴の戦国史に、新たな光が照射されるのは確実である。
(本書パンフレットより)