あの吉田松陰も激賞した徳川史に対抗する西国戦国史
陰徳太平記 上下
 香川 宣阿
 マツノ書店 復刻版 *原本は大正二年早稲田大学出版「通俗日本全史」
   2000年刊行 A5判 上製 函入 総計1288頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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徳川史に対抗する西国史
〜『陰徳太平記』成立の謎が物語る吉川家臣の反骨

   作家 古川 薫
 「戦国・織豊期の軍記。八一巻。岩国吉川家の家臣香川正矩の遺稿『陰徳記』を、二男景継が『太平記』にならって潤色し、1695年(元禄八)完成、1712年(正徳二)刊行。毛利氏の中国制覇を中心に西国の武家の興亡を描く。(通俗日本全史)」(岩波・日本史辞典)
 多少の異同はあるにしても、これが日本史辞典類に見る『陰徳太平記』のおよその内容である。『陰徳記』を潤色したものが『陰徳太平記』としているが、潤色のほかに補足されていることも見逃せない。両書をくらべて点検してみると他の史料を調べて補足した部分がかなり目立つからである。
 辞典類その他の諸書で、これを通俗史料とするのは、軍記物語の範疇に入れて普通にそう呼ぶのだが、『将門記』『保元物語』『太平記』から『明徳記』『応仁記』までは戦争を主題とした叙事詩的な文芸作品と位置づけながらも、江戸初期に出た多くの軍記ものは「文芸的にも史料的にも価値は低い」ときめつける。したがって『陰徳太平記』などもそのように扱われがちだ。叙述に修飾や誇張があって、史実への信憑性がなく史証の価値がないとして歴史学の分野からは、あくまでも「通俗」の烙印が押されてしまっている。

 しかし「延徳年間(1489-92)より慶長年間(1956-1615)に至る百数十年間の関西諸家の興亡、諸将の事跡をしるしたものであるが、主力は、毛利氏が大内・尼子の諸家にかわって西日本に重きをなした、ということの記載におかれた。和漢混淆体の文体で、信用にあたいする史料にもとづいて書かれたもので、中国地方の歴史書として貴重である」(河出書房新社版『日本史大辞典』藤間生大)と、『陰徳太平記』の史料価値を積極的に評価する意見があることも知っておきたい。
 『陰徳太平記』の修飾過剰な叙述が貶されることも少なくない。大げさな表現や頻出する漢籍からの故事引用などがペダンティックだとして嫌悪する人もいるのだが、軍記物の文体とはもともとそうした趣きのものだから、それが鼻につきはじめたら、もうどうしようもないだろう。私などは軍記物独特のレトリックを駆使した和漢混淆文の肌あいを楽しむくちである。

 『陰徳太平記』は香川正矩の遺稿『陰徳記』を後の者が潤色したので修飾過多になったとされるのだが、必ずしもそうではない。一例を挙げてみよう。『陰徳記』巻之第三十五「豊前国門司之関合戦之事」は、永禄四年秋の関門海峡における毛利・大友両軍の「門司城合戦」を述べたくだりである。これは約千字で比較的簡単に片付けられている。『陰徳太平記』の同じ章を見ると、大友史料や『九州治乱記』『吉田物語』『野史』などからの補足によって、文章の長さが『陰徳記』の二倍にふくらんでいる。
 登場する人名、地名も詳しさを増し、合戦場面の説明も描写が具体的になっている。海峡を挟んで対時する両軍の緊張感を伝えており、『陰徳記』の乾いた骨組みに臨場感を肉付けした迫力のある場面である。
 軍記物としての『陰徳太平記』は、通読に耐える面自さをもっている。難字や人名にルビが振ってあるのもありがたい。毛利元就の初陣や厳島合戦、毛利・大友両氏が対決した関門海峡の門司城合戦、尼子氏との激闘から、山中鹿介と品川狼介の一騎討ちに至るまで、なつかしい場面も次々にあらわれる。まさに叙事詩の世界だ。戦国時代の個人ないしは小集団の狸雑な行動が「正史」によってどこまで解明され、時代のたしかな現実を再現し得るかは、はなはだ疑問である。

 『陰徳太平記』には混沌の深みがある。時系列のみでなく歴史を面でとらえている。九州・中国にひろがる戦場を駆けめぐる錯雑した情況をたどって行くうち、何か巨大な擂り鉢り鉢の縁を自分が移動しているかのような思いにとらわれる。それが軍記物の描き出す歴史の包括像というものではあるまいか。私にとって『陰徳太平記』は、愛読書であるばかりでなく、戦国の歴史小説など書くときには必携の参考図書となる。

 ところで『陰徳太平記』が、江戸期に書かれながら、関ケ原合戦の前でその筆を止めているのは、一種の謎というべきであろう。毛利氏が大内・尼子の諸家とかかわった時代を描くとすれば、そのタイム・スパンは妥当と言えなくもないが、戦国百年戦争の総決算ともいうべき関ケ原役を書かないのは故意に避けているとしか思えない。
 関ケ原役は、毛利氏が徳川氏に騙されたという深刻な間題を残しており、毛利の側からそれを史書としてまとめるのは、必ず幕府の好まざるところである。そこで毛利元就の事跡だけはきちんとした歴史として編纂しておきたいと願ったにちがいないのだ。香川正矩が『陰徳記』を執筆した背景には、幕府初の官撰史書である『武徳大成記』編纂の動きが横たわっていると思われる。『武徳大成記』は、貞享三年(1686)に成立した。これは徳川氏の創業記であり、初祖松平親氏から家康一生の事歴および幕府創業の事跡・武功をしるしたもの。後世の『徳川実記』にもかなりの嘘があるが、『武徳大成記』はもっとひどく、八代将軍吉宗が虚飾多しと非難したといういわくつきの史書である。
 支配者に都合のよい歴史が編纂されるのは古今東西を問わない。木下順庵ら御用学者が幕府に命じられて『武徳大成記』編纂にとりかかり、家康が権力を手中にするまでの経緯を、きれいごとに叙述したことは容易に想像できる。

 さてそこで『陰徳太平記』の刊行は、正徳二年(1712)だ。『武徳大成記』の成立から二十六年後である。つまり香川正矩は、徳川氏が編纂する官撰史書によって、毛利氏と西国の歴史が歪められることを懸念し、『陰徳太平記』の執筆を発起した。関ケ原役の密約で家康に煮え湯を飲まされた吉川家の家臣が『陰徳太平記』の編纂にあたったことにも重い意味がある。そして「諸将会盟の事」を終章としているのだが、それはいかにも不気味な言葉で終わっている。
 「太閤公御遺言の旨これあるに由りて、五人の大老、五人の奉行、少しも不信を存ぜず、(中略)秀頼幼君を衛護し給へば、乾坤泰和、風物順安にして、万民楽国を謡ひ、山万歳を呼ふとかや」
 そこには「天下を詐取した」家康への憎しみが、痛烈な皮肉として大胆に述べられている。ことし紀元二〇〇〇年は、関ケ原役からちょうど四百年目にあたる記念すべき年である。反骨の吉川家臣香川正矩の顰みにならって、そのことを暗楡するマツノ書店の『陰徳太平記』復刻に拍手を贈りたい。

『陰徳太平記』復刻本の刊行によせて
 文学博士・京都女子大学教授 笹川 祥生
 『陰徳太平記』は、香川宣阿の著すところ。宣阿(正保四年〈1647〉〜享保二十年〈1735〉)の自序によれば、父正矩(慶長十八年〈1613〉〜万治三年〈1660〉)が、文明から慶長に至る間の、関西諸国における「軍事を据撫(=拾い集めること)して」八十一巻とし、『陰徳記』と名付けた。しかし、正矩は「稿を脱せずして世を終」えた。すなわち、未完成のまま、四十八歳で世を去ったので、次男の宣阿が引き継ぎ、「長を取り短を捨て、繁を菱り略を補ひ、従ひて之を潤色」し、完成したのが『陰徳太平記』である。以上の記述を受け、諸事典類では、宣阿が正矩の草稿を潤色して完成した、という趣旨の紹介をすることが普通である。自序の記述が有る以上、多くの事典の執筆者が、それを尊重することも、また、やむを得ない。

 しかしながら、私は、以前から述べているとおり(『正徳二年板本陰徳太平記』〈昭和四十七年・臨川書店〉の解題、『戦国軍記の研究』〈平成十一年・和泉書院〉など)、『陰徳記』と『陰徳太平記』は、それぞれ個別の作品と見るべきである、と思う。宣阿の主張にもかかわらず、である。
 『陰徳記』が未完成作というべきものではなく、それ自体已に完成された作品であることは、先年(平成八年)マツノ書店から、米原正義博士の校訂によって翻刻刊行された同書を熟読されれば、読者にも納得いただけるのではなかろうか。もちろん、『陰徳太平記』が『陰徳記』から多くの材料を得ていることに疑いはない。しかし、それによって、単に『陰徳記』を補完した作品である、と考えることは、それぞれの作品の個性を、正当に理解していないが故の、一種の早とちりであると思う。

 『陰徳太平記』と『陰徳記』を、異なった作品として扱うべき理由は、いくつかある。まず、両書の巻数は八十一巻で変わらない。したがって、宣阿が『陰徳記』の存在を、はっきりと念頭に置いていたことは理解できる。にもかかわらず、両書の間には記事の出入りが少なからず有り、宣阿は自分の構想に従い、かなり自由に、自分の作品として仕上げていったといえよう。
 付加されたのは、主に毛利氏の動向とは直接関係のない時期の、畿内・四国・九州各地方の出来事である。これらの記事が加わった結果、「毛利氏の記録」の域に留まっていた『陰徳記』に比べ、戦国時代における関西(四国・九州を含む)各地激動の様相が、読者の眼前に展開する。「略を補ひ」は、単に、正矩が見落とした事柄を適宜補う、という程度のことを意味した言葉ではなかった。
 一方、宣阿が除いた記事も少なくない。たとえば、元春に家督を譲った吉川興経は、元就の放った刺客に殺害された、と『陰徳記』に述べるが、『陰徳太平記』にこの記事は無い。また、元就が大内義隆と陶晴賢との抗争に際し、陶氏に一味したことを記す『陰徳記』の一章も『陰徳太平記』では削除される。宣阿のこうした処置は、面筆」などと、後世の論者に批判される原因となる。客観的には、そうした批判は尤もだといえよう。ただ、宣阿の気持ちを考えると、陽報のあるところ、陰徳が必ず存在したはずだ、ということであろう。宣阿のごとき、事実も論理に従属すべきだ、という執筆姿勢は、危険な要素を含むものであり、現在の読者は、戸惑いを感じるかもしれない。しかし、良質の史料も容易に閲覧できる現代にあっては、『陰徳太平記』の存在が、歴史の正しい理解に悪影響を与える心配も無い。また、『陰徳太平記』は、宣阿が自らの主義主張を展開しただけの、無味乾燥な作品ではない。宣阿の虚構の例を提示したが、これをもって全編担造記事の集積だ、と考えることも、これまた誤解というべきである。史実に照らして誤りのない記述も多々ある。それどころか、戦国武士の心情、その行動の軌跡を、かなり的確に描き、同時期に著された他の軍書と比べ、戦国の雰囲気を伝えることにも成功している力作として、鑑賞に堪え得る作品といえよう。かつて松田修氏が「豊富な内容を持ち、はば広い性格を示している」(「国語国文」三十三巻九号・陰徳太平記と雨月物語)と評されたが、概ねの適評というべきであろう。

 なお一言付け加えると、小瀬甫庵は、太田牛一作の『信長記』(いわゆ『信長公記』)に対し、あえて自著『信長記』について、「太田和泉守生輯録 小瀬甫庵道喜居士重撰」と位置付けた。しかし、現在、甫庵の作を、牛一作の『信長記』とは、別の個性を持つ作品とするのが、通常の評価である。甫庵が「重撰」と記しているにもかかわらず、である。『陰徳記』と『陰徳太平記』のように、原本と・それに若干の補遺を加えた関係と見える二作品が、実は別の個性を持つ作品であることは、近世軍書の世界では、よくある現象なのである。
 『陰徳太平記』の近世における刊本としては、正徳二年板本(洛陽有春軒)の存在だけが知られている。また、翻刻本としては、明治四十四年に鳥取と松江で出版されたのを最初として、今回復刻される通俗日本全史十三巻・十四巻として、大正二年、早稲田大学出版部から刊行された。それ以来、長らく出版されることもなく、現在、いずれも入手困難な状況である(通俗本はその後複製されたことがある)。その後、昭和四十七年に影印本『正徳二年板本 陰徳太平記』(付解題、松田修・笹川祥生共編・臨川書店)が刊行されたが、僅か百部だけの発行部数ということで、古書店でも、なかなか見かけることがない。昭和五十五年から五十九年にかけて、『正徳二年板本 陰徳太平記』(米原正義博士の翻刻・解題・注による)全六冊が刊行されたが、大部の著作であり、手軽に購入というわけにもいかないのではなかろうか。そういう意味では、今回の出版は、時宜に適った企画といえよう。ただ、読み易さを優先した結果、振り仮名など、原本に全く忠実とはいえない部分もあるのは、その時代の翻刻としてはやむを得ない。もちろん、通読に不都合という程でもない。
 今回、マツノ書店から通俗日本全史本の復刻本が刊行されるということで、いささかの解説を試みた次第である。なお、「通俗」とは、「わかりやすい表現を用いた」という程度の意味で、通俗日本全史の場合は、さらに具体的に「漢文ではなく、和文で書かれた」という意味である。決して、低俗あるいは下品を意味するわけではない。余談ながら、江戸期の「通俗」については、故中村幸彦先生の「通俗物雑談」(『中村幸彦著述集』第七巻・中央公論社刊)に詳しい。
(本書パンフレットより)