中・近世史の研究に不可欠
日本の古文書中の白眉

防長風土注進案全22巻
山口県文書館・編
A5判クロス装上製函入・各冊平均500頁
全22冊
(昭和58年刊)
※分売あり ・ 在庫につきましてはHPより検索できるもののみ。

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内容見本
【PDFファイル】




刊行にあたって
今さら改めて申し上げるまでもなく、この『防長風土注進案』は、防長二州全域におよぶ、各村落の沿革、地理、産業、経済、社会、習俗等の実態を細大もらさず綿密に調査した稀有の記録として、山口県のみならず、わが国の近世史研究上でもきわめて高く評価されている第一級の史料集です。
『防長風土注進案』のこうした価値は、本書が品切れ絶版の多い郷土誌のなかでも、ひときわ入手困難であったことによく示されています。本書の初版は、山口県文書館の最初の文化出版事業として、5百部限定で昭和35年から世に出されました。しかし刊行後すぐに稀観本となり、その後も、あまりにも大部のこともあって再版されないまま現在に至りました。
こうして本書は、研究者が最初に座右にそなえ、あるいは終生の伴侶として味読すべき最も基本的な文献でありながら、この20年間、古書市場へもほとんど姿を見せず、たとえ万金を投じても購入することのできない幻の本となっていたのです。
この状況を打開すべく、小社では文書館に本書の復刻要請を続けて参りましたが、関係各位のご理解とご協力をえて、このほどようやく実現の運びとなりました。
昭和57年9月・マツノ書店

防長風土注進案について
【成立】
長州藩では、村田清風らのいわゆる天保の大改革に関連して天保12年1月、各宰判の代官を通じて、管下の各市町村島浦から「地理産業仕出」の名目で、一定の綱目を示して実態調査の上申を命じた。
地方においては庄屋が中心となって、公簿の記載、社寺や旧家の所伝、故老の伝承ほかさまざまな記録を調査し代官所へ注進した。代官所ではこれを監修して藩府へ進達し、藩では国学者近藤芳樹の総監修のもとにこれをまとめて『風土注進案』と名づけた。

【内容】
各村別の記載項目は次の通りである。村名由来、竪横里数 村内小名 山川之形勢 村内日受土地相 水掛水損早損 肥し下草 気候植付物時節 田畠町数並石高 諸上納物 小貫 御米蔵 御囲穀有米 御茶屋 御勘場 御本陣 御番所 御高札場 馬借所 川口御番所 渡船 御開作土手番 壱里塚 本往還道 駅 萩及海辺之里数 市町 大山御立山 御領山 合壁山 山野 寺社境内山 狼煙場 川 橋 井手 堤 溝 樋 沼 水 道 海 嶋 岬瀬端 波戸 家数 口数 職人札 商人札 馬郎札等 在宅諸士足軽以下及陪臣 雑戸 牛馬数 船数 風俗 地下所持之古文書類 産業 物産 神祠 寺院 古城跡 古戦場 名所旧跡 陵古墓 村内収支総括り。

【構成】
原則として一町村一冊からなり、その数は395冊に及び、長州藩の全領域17宰判の全町村を網羅しているが、文書館ではこれを次の通り全22巻に分けて刊行した。
1 大島宰判 上
2 大島宰判 下
3 奥山代宰判
4 前山代宰判
5 上関宰判 上
6 上関宰判 下
7 熊毛宰判
8 都濃宰判
9 三田尻宰判 上
10 三田尻宰判 下
11 徳地宰判
12 山口宰判 上
13 山口宰判 下
14 小郡宰判
15 舟木宰判
16 吉田宰判
17 美祢宰判
18 先大津宰判
19 前大津宰判
20 當島宰判
21 奥阿武宰判
22 豊浦藩村浦明細書

【編修者】
なお昭和35年から40年にかけての刊行に際し、編修校訂の実務にあたったのは次の六氏である。(敬称略)石川卓美、田村哲夫、利岡俊昭、広田暢久、森田良吉〔監修〕三坂圭治。


地方史の正しい理解のために

山口県地方史学会名誉会長・三坂圭治
山口県の歴史を研究しようとする場合、どうしても一度は目を通さなければならない本が、少なくとも四つはある。その一は『萩藩閥閲録』、二は『地下上申』、三は『寺社由来』、四は即ちこの『風土注進案』である。いずれも大部の史料であり、且つそれぞれに特色があって、どれを省いてよいという訳のものではないが、一と二は時代的に、三は内容的に限定されていて、これを十分に活用する為には、事前に相当な準備を必要とする。
その点で最も入り易く、入ってしかも内容が豊かであり、多種多様な問題について、興味津々として尽きないのが『風土注進案』である。町村史の編纂に当たり、下手に骨折って新しい原稿を作るよりも、注進案をそのまま印刷した方が手っとり早く、間違いがなくてよいではないかといわれるゆえんもそこにある。
実際そうした考え方から、すでに印刷された町村も一、二にとどまらないし、今日われわれがそれによって研究に便宜を得ていることも事実であるが、しかし、例えば風俗習慣などのように、その村独特のものと考えられがちな事柄でも、それを一村限りの立場で見たのでは、とかく独善に陥るおそれがあって、それだけで能事足れりとすることには賛成し難い。
自分の村のそれが、全体の中でどんな意義をもっているのか、先人の生活を、その事跡を、その労苦を正しく認識し、さらにはそれを現代に生かし、将来への糧にしようとするならば、どうしても全体を見たうえでの自他の比較研究が必要になって来る。……(以下略)

【初版の予約募集パンフより転載】

『防長風土注進案』復刻版刊行の意義

北海道大学教授・田中彰
私がはじめてこの『防長風土注進案』の原本を手にして、すでに30年になる。
当時、明治維新史の研究を志した私は、山口への調査のたびに、これを県立山口図書館、のちには山口県文書館で播いた。
そのころ、長州藩研究は、幕末維新史のひとつの要として注目されていたから、長州藩の村明細帳ともいうべきこの膨大な史料は、多くの研究者が着目し、その分析をめぐってさかんに論争がなされていたのである。山口県文書館は、これを1960年(昭和35)から5年がかりで刊行した。机上に積みあげられたその全22巻を、私はいとおしむように読んだものだ。
だが、それも束の間、やがて吹き荒れた”大学闘争”の嵐は、忽然とこの貴重な史料集を私の研究室から消し去ってしまった。500部予約限定出版の番号を手がかりに、その行方を追ったものの、もはや私の手に戻ることはなかった。その『防長風土注進案』に、こんど復刻版として相見えることができる、というのだ。まさに待望の刊行である。
長州藩研究は、その後の進展によって、新しい局面にいま立っている。その間、埋もれていた在地の多くの史料も発掘された。『防長風土注進案』の総括的な史料とのつき合わせが可能になってきているのである。
かつて私は、この『防長風土注進案』の研究の意義について、「『注進案』の分析は、もはや一長州藩の問題ではなく、それは明治維新史のもっとも基本的な問題に連なっていることが明らかであろう。さらにいうならば、それは変革の条件を規定する世界史的な法則の問題とも関わりをもっているのである」(『防長風土注進案』付録九、1962年6月)と書いた。
今回の復刻は、そのもつ意義をいっそう深めるにちがいない。本書の刊行にあらためて心から声援を送るゆえんである。


『防長風土注進案』の農業史料としての価値

東京大学名誉教授・古島敏雄

江戸時代の農村・農業事情を知ろうとすれば、一般的には村々の村役人資料を探索して、村明細帳・村鑑を見つけ出す以外に方法はない。
明細帳のなかには、大阪周辺の地の天保頃のもののなかに、主作物である綿や稲について、かなり具体的に書いたものもあるが、多くは記述は簡略である。しかもほぼ同一年度について、一地方の各村について利用できるのは信濃上田藩領のもののほか、多くはない。幕府は武蔵・相模の村々の村況を調べ上げたことがあるが、その調査によっては村の来歴・地理的概況・寺社などについては知りうるが、村の農業や経済の姿については知ることができない。
今度復刻される『防長風土注進案』の内容は村明細帳や幕府の「新編風土記稿」に比べて、はるかに詳密な農業や村経済の記述を持っている。これは防・長二州にわたる長州藩領の村々の書きあげた村況に関する報告の集成であるが、戦後活字本として刊行されるに先立って、山口・東京にある稿本によって、幾つかの優れた研究が発表されている。それらは農民の階層性、経済発展の地域類型と肥料の種類、特に綿作・綿業の発達した宰判の綿業の性格などに及んでいる。
注進案の記載事項は通例の地誌的項目のほかに農業、その他産業に関する多くの記事をもっている。土質、自然災害の性質、肥料、その給源としての林野の状況、気候と作物の作業季節、灌漑条件などの農業の基礎条件のほか、他の産業にもふれ、それらの総括として一村経済の収支に及んでいる。
これらを駆使すれば、現存の研究をこえた地域経済の精密な姿を明らかにできるはずである。条件の異なる各地域の姿を解明すれば、それによって近世日本農業全般に通じる詳細なモデルを描くことになるといっても過言ではない。