『萩藩閥閲録』『防長寺社由来』と並ぶ、長州藩秘蔵の「器物史料集」 |
影印本 防長古器考 全4巻 |
B5判クロス装上製函入・3000頁 外寸・縦29センチ、横20センチ、厚30センチ (平成4年刊) |
刊行に際して |
『防長古器考』と『閥閲録』 ▼萩藩における大きな編纂事業としては、『閥閲録』『寺社証文』『譜録」の三書がよく知られている。『閥閲録』の編纂は1720年から6年問。『寺社証文』は1725年。『譜録』は1740年頃と1770年頃。つまり、江戸中期の50年間に、これら三つの大事業がおこなわれている。 ▼したがってそのすぐ後、1769年から6年間にわたって編纂された『防長古器考』は、「器物」を中心としている点で、「文書」中心の三書とは性格を異にすると同時に、非常に緊密な関係を持っている。 ▼例えば『閥閲録』巻二一 柳沢靱負家の記述「豊臣御姓を賜り被叙任従五位下監物候、従秀吉公品々致拝領 干今所持任候」を証するものとしては口宣案が載せられているが、秀吉からの拝領品を明らかにするものは『閥閲録』中にはない。一方『防長古器考』の「有図」巻第三二には、柳沢勘七家蔵の裳袴など二点が、秀吉からの拝領品として図入りで掲載されている。このようにして『閥閲録」と本書は、互いの内容を証しあっているのである。 ▼もう一つ例をあげれば、『閥閲録』巻五六榎本市左衛門家の記事は、数通の任官状の写しと先祖の毛利家奉公の次第からなっている。一方『防長古器考』の「無図」巻第一五は、榎本市左衛門家蔵の鞍や鐙について、これらが、先祖就行の特別な働きに対する毛利秀就からの拝領品であるとの記述が中心となっている。両者の内容は殆ど重なるところがない。ここでも「器物」は「文書」の欠を補う記録として重要な働きをしているといえよう。 ▼これらの例でもわかるように、『防長古器考』は、「文書」の記録である三書の欠を、「器物」の記録として補っている。『譜録』を『閥閲録』の拡大編とすれば、本書はその特別編ともいえ、三書の編纂を中心とした萩藩の史料収集事業の延長線上に、この『防長古器考』を位置づけることができるのである。 影印本『防長古器考』の構成 ▼『防長古器考』は萩藩所蔵の後、山口県庁に管理され、さらに山口県立図書館への寄託を経て、現在は山口県文書館の所蔵となっている。総目録1冊、「有図の部」92冊、「無図の部」68冊、計161冊、2900頁からなる大冊である。挿図は計487点(うちカラー5点)あり、より貴重なもの、珍しいものが取り上げられ、描かれている。記述の難しい珍器・珍物の図も少なくない。 ▼今回の復刻にあたっては、山口大学助教授・影山純夫・元山口県地方史学会会長・三坂圭治両氏の校訂により、原文に句読点及び、必要に応じてルビを打つなどして読み易くし、そのほかは原寸のままを忠実に再現した。 ▼復刻版は、「本文」を洋本全三巻にまとめ、「別冊」として新たに、影山純夫著『「防長古器考」人名・術語解題』(B5判・100頁)を付した。 |
稀有の文化財調査書集成 毛利博物館館長 臼杵華臣 |
『防長古器考』は江戸時代後期、萩藩内に伝存していた珍器・宝物の調査記録の集大成である。編集を命じた長州藩第七代毛利重就は、財政の確立につとめ、教育の振興・産業の開発をはかり、藩中興の英主と仰がれる。一方自らも和歌・書・絵・茶・陶芸に堪能な文化人でもあった。本書はその卓越した文化的業績として高く評価されるところである。 直接調査に当ったのは、礼式を世業とする藩校明倫館の師範であった小笠原長鑑と鷹匠を世業とする藩士林以成であったが、統括したのは重就側近の重臣高須就忠で、この事業の進捗・完成には重就の意向が大きくかかわっていた。 その採訪の範囲は萩藩全域に亘り、家臣・陪臣はもとより、寺社・農商家にいたり二百余家におよんでいる。宝物の種類は武器・武具・馬具・戦陣用具をはじめ、旗幟・衣裳などの染織品、仏・神像・假面などの彫刻、さらには楽器・鳴器・文房具・茶道具、加うるに絵画・書跡・典籍・古文書など余すところがない。採録に当っては正確・忠実を第一義とし、その記述はおおむね形状・品質構造・法量・銘文・伝来などにおよぶ。重要なものには雲谷派の専門絵師の手になる精密な挿図を加える。特に有難いのは古器にかかわる文書・記録は原文のまま、家伝等についても敢て取拾せず登載し、時に考説を加える場合も独断を排し、客観的立場を失なっていないことである。 これはまさに十八世紀における稀有の文化財調査書集成であり、本書の刊行は単に山口県に限らず、わが国の美術史、歴史の研究に好個の資料を提供するものとして、その学問的意義は極めて大なるものがある。 (本書パンフレットより 肩書・は当時のもの) |
『集古十種』と並ぶ好史料 文化庁 主任文化財調査官 廣井雄一 |
『防長古器考』は周防・長門国内に伝わる由緒ある文化財の調査報告書で、寛政十二年に松平定信の編集になる『集古十種』に並ぶものである。『集古十種』が全国の古器旧物の実測図を中心に簡潔に由緒伝来を記したのに対し、『防長古器考』は各々の宝物に対し所蔵者、由緒伝来、寸法、作品解説を細かに記し、これに図を加え注を付したもので、学術史料として価値が高いものである。 特に甲冑・刀剣類にあっては今日に伝えられているものも少なからずあり、それちを知る手がかりとなり、また各部分の名称のつけ方にも参考になることが多い。 本書巻第七、益田就祥家の足利義政より先祖兼尭拝領の小袖と頼朝公之太刀(銘成高)は昭和55年に新発見として重要文化財に指定されたが、その伝来は本書に明らかであり、加えて、太刀には今は無い浪文金具の革包太刀拵が付いており、元の有様が窺えることは重要である。 巻第十、桂元冬家の太刀(銘光房・弘安二年、重要文化財)は現在萩の志都岐山神社にあり、その箱書には桂家が代々満願寺に預け置いたとあり、大正8年に至って志都岐山神社に寄進されたが、この太刀の経歴は本書と箱書を合わせ見ることによって一層明らかになっている。 巻七十二、防州氷山興降寺庫蔵の琳聖太子之剱は平成2年に当寺に於て調査したものである。刀身に草花文の銀象嵌のある上古の剣であり、宰町時代の制作と思われる白銀造藤巻の拵がついている。この剣の伝来は本書に記載があり、百済聖明王第三王子琳聖太子のもので大内氏に伝わり、大内氏が拵を新調して当興隆与に奇進したことがわかる。また同書には天文五年の御剱御誘注文が所収し、拵作制の仕様がわかるなど誠に興味深いものがある。 上の例でもわかるように『防長古器考』は良く調査・整理された史料集として大いに役立つものである。本書の刊行によって、今日方々に放逸していると思われる品々が少しでも多く発見され、保存されていくことを期待したい。 (本書パンフレットより 肩書は当時のもの) |
「器物史料」の宝庫 国立歴史民俗博物館教授 宇田川武久 |
『防長古器考』は萩藩の礼法家小笠原長鑑が、明和6(1769)年に藩命をうけて、編纂に着手した書冊で、内容は毛利元就の時代から諸家に伝わる宝器の記録である。長鑑没後、藩士の林以成が編纂をひきつぎ、六年後の安永3(1774)年に完成させたものである。 現在、わたくしは、近世初頭の火炮の研究に没頭しているが、これぞと思う史料には、なかなか巡り合えない。ところが、本書の「有図の部」巻第十四所載の益田就白家蔵の鉄砲の記事をみて驚樗した。何とそこには、外国製の大砲仏狼機が、寸法までついて図示されているからである。 記事は、南蛮制作の大筒と伝えられ、古来より所持しているが、先祖の誰が、いつごろから所持していたのか判らないと説明している。しかし、砲身の形状と意匠から東南アジア製の仏狼機砲であることは、まず疑いを入れない。したがって、この記事を根拠に十七世紀以前、日本に東南アジア製の仏狼機砲が持込まれていたと主張でき、誠に貴重な資料というべきである。本書を精読すれば、こうした発見はほかにも多々あるに違いない。 器物史料の宝庫ともいうべき本書は、現在、山口県文書館に所蔵されている。それがこのたび山口大学の影山純夫氏によって、丁寧な句点をつけて、史料集を取扱って定評のある山口県徳山市のマツノ書店から出版される。いまから手にするのが待ち遠しい限りである。 本書が歴史愛好家に広く読まれ、さらには広義の歴史学の資料として大学および歴史系の博物館に備えられることを、わたくしは切望してやまない。 (本書パンフレットより 肩書は当時のもの) |