サイレントネイビー精神に徹し、金銭欲皆無、武士の情けあり、日本海軍の英雄
元帥島村速雄伝
 中川 繁丑
 マツノ書店 復刻版 ※原本・昭和8年
   2017年刊行 A5判 上製函入 630頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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元帥島村速雄傳 略目次
第1章 島村家家系
第2章 幼年時代
第3章 海軍生徒時代
第4章 少尉補時代
弟5章 少尉時代
弟6章 中尉時代
第7章 大尉時代
第8章 常備艦隊参謀時代
第9章 海軍々令部参謀時代
第10章 伊国公使館附武官時代
第11章 海軍々令部局長時代
第12章 須磨艦長時代
第13章 常備艦隊参謀長時代
第14章 教育本部第一部長時代
第15章 初瀬艦長時代
第16章 再常備艦隊参謀長時代
第17章 第二艦隊司令官時代
第18章 練習艦隊司令官時代
第19章 海軍兵学校々長時代
第20章 海軍大学校々長時代
第21章 第二艦隊司令長官時代
第22章 佐世保司令長官時代
第23章 教育本部長時代
第24章 軍令部長時代
第25章 軍事参議官時代
第26章 艦内生活
第27章 社交生活
第28章 家庭生活
第29章 島村氏の趣味嗜好
第30章 元帥の終焉
 (附 録)
第一 島村参謀と明治二十七八年戦役
第二 島村少佐土希両国へ出張報告摘録
第三 島村参謀長と明治三十七八年戦役
第四 島村司令官と練習艦隊
第五 島村司令長官と遣英艦隊
第六 島村軍令部長と大正三四年戦役
第七 島村軍令部長と大正四年以後対独戦役
第八 島村軍令部長と西伯利亜事変
第九 某政治家に答ふる書



  『元帥島村速雄傳』推薦の辞
   作家  中村 彰彦
 明治時代の軍事史を多少なりと学んだ者であれば、島村速雄という人物が長期にわたって日本海軍を支えつづけた事実に気づかぬはずはない。島村速雄は海軍戦術の立案家としても超一流であるばかりか、その読みの深さ、部下を愛する人間性、おのれの功を誇ろうとしない謙虚さなどにおいて、わが国の海軍軍人の望ましさを一身に体現していた存在であった。
 その全体像を描き出した伝記史料といえば本書『元帥島村速雄傳』しかないことは、『国史大辞典』「しまむらはやお 島村速雄」の項も本書のみを参看することによって書かれている、というだけで充分におわかりいただけよう。

 その島村速雄は、安政五年(一八五八)、土佐国高知の生まれ。明治十三年(一八八○)十二月に海軍兵学校を卒業するまで首席をつづけた逸材であり、同二十年の大尉時代にはアメリカ海軍ベインブリッジ・ホフ少佐著『現代海軍戦術の実例、結果、原理』を『海軍戦術一班』として日本語に訳し、早くもこの分野の第一人者に躍り出た。
 この島村を語る時に忘れてならないのは、戦術眼の確かさである、特に艦隊決戦の場合は単横陣(すべての艦が横一線に並んだ形)ないし凸横陣(主力艦を中央前方に置き、ほかの艦をその背後左右に並べた形)から開戦するのが一般的であった時代に、イギリス流の単縦陣戦法を海軍に採用させたことは、第一級の手柄であったといってよい。
 単縦陣戦法とは、別名を「前へならえ」主義。一番艦、二番艦から殿艦(最後尾の艦)までが縦一列に並んだ隊形から開戦することで、この隊形をとると二番艦以下は一番艦の航跡をたどるだけでよいため操艦もきわめて容易なのだ。しかも敵の艦隊が備砲の射程距離に入ったら、左右いずれかへ順次回頭して舷側砲を一斉射撃し、さらに反対側へ回頭してもう一砲の舷側砲を発射しながらすでに撃ちおえた側の砲に玉ごめしてゆけば、この猛攻は間断なくつづくことになる。
 当時、海軍参謀本部に出仕していた島村が艦隊演習をおこなわせてみても、一方に単横陣か凸横陣、他方に単縦陣の隊形をとらせて開戦させると単縦陣側の勝率が圧倒的に高かった。そこからやがて単縦陣戦法は「日本海軍のお家芸」といわれるまでに洗練されてゆき、明治二十七年(一八九四)九月十六日、連合艦隊旗艦「松島」に座乗した伊東祐亨初代司令長官、鮫島員規参謀長、島村速雄参謀(少佐)チームは、世界最強といわれた「定遠」「鎮遠」を中心に凸横陣を布いた清国北洋水師を一方的に撃破することに成功するのである(黄海海戦)。
 さらに翌年二月五日、連合艦隊は渤海湾の軍港威海衛に逃げこんだままの北洋水師残存艦を全滅させて勝利を決定づけるのだが、敵将丁汝昌が敗北の責任を取って自殺したと知った伊東司令長官は、戦利艦船のうちから、「康済号」を返却し、この船によって丁汝昌の遺体を故郷に送るよう伝えた武士道によって海軍の産んだ英雄第一号にかぞえられた。
 しかし、本書は「此事に関しては幕僚たる島村参謀の進言が与って大いに力があったようだ」と書き、この美談の陰のプロデューサーは島村であったことを今日に伝えている。
 それから九年。明治三十七年(一九〇四)二月に日露戦争がはじまってふたたび連合艦隊が編成された時、旗艦「三笠」に座乗した司令長官が東郷平八郎だったことはよく知られている。大佐(のち少将)に昇進していた島村は参謀長として東郷とコンビを組み、まずはロシア旅順艦隊の撃滅に成功するのだが、その前段階として旅順口閉塞戦がおこなわれている間に、駆逐艦「暁」に負傷者多数が発生したことがある。部下の秋山真之参謀がその収容を途中で中止して砲撃を開始させようとしたのに気づき、島村は秋山をこう叱りつけたと本書は言う。
 「瀕死の戦傷者を打棄てて行くとは何事ぞ」
 全軍特攻を怒号して恥じなかった太平洋戦争末期の司令官たちと智将島村の違いは、このひとことに凝縮されているといってよい。本書にはほかに島村が失敗を犯した部下たちの軍歴に傷がつかないよう配慮する姿も描かれていて、「武士の情」とは本来どういうものであったのかを教えてくれる。
 しかし、これらにもまして島村の名を高からしめたのは、明治三十八年(一九〇五)五月十四日にフランス領安南のヴァン・フォン港を出港したあと行方のつかめなくなったバルチック艦隊の航路を正確に予言したことである。
 ウラジオストックをめざしているバルチック艦隊の航路としては、朝鮮海峡のほかに三つのルートが考えられた。対馬海峡、津軽海峡、または宗谷海峡を経るコースである。
 それが読めないため大本営も東郷平八郎とその幕僚たちも意見が割れ、作戦参謀秋山真之も頭を抱えた。東郷も一時はバルチック艦隊が津軽海峡ないし宗谷海峡にあらわれても迎撃できるよう、連合艦隊の錨地を現在の朝鮮半島南東部の鎮海湾から日本海北方へ移すことにして新たな錨地の海図まで作らせたほど。
 同月二十四日の日没後、最終方針を確定すべく「三笠」で会議がおこなわれた時、東郷は将官休憩室に籠って出てこなかったが、島村もまた会議につらなってはいなかった。この時第二艦隊司令官に転じて「磐手」に座乗していた島村は、汽艇に乗って「三笠」をめざす途中でその汽艇が故障してしまい、おりから襲ってきたスコールにずぶ濡れになって端艇に乗り換えるうち、遅刻を余儀なくされたのである。
 だが、ようやく「三笠」会議室に入って錨地を北上させる意見が主流と聞いた島村は、本書によれば藤井較一第二艦隊参謀長とともに将官休憩室に東郷を訪ね、こう進言したという。
 「連合艦隊の北方移動は尚早なり、別に情報なき限り暫く此処に止まるを可とす」
 一説によれば、島村はつぎのようなことばで東郷を説得したともいう。
 「敵に海戦というものを知っている提督がひとりでもいるならば、敵はかならず対馬水道にくる、と考えます」(拙作『海将伝』〈文春文庫〉より)
 東郷がこれに同意したのは、北洋水師撃滅に成功して以来の島村の智略を高く評価していたために違いない。はたして五月二十七日、バルチック艦隊は対馬海峡に出現、単縦陣によってこれを追跡した連合艦隊の猛攻を受けて歴史的大惨敗を喫するに至る。
 島村速雄が明治四十二年海軍中将、大正四年(一九一五)おなじく大将に昇進し、六十六歳にして永眠した同十二年一月八日に元帥の称号を受けたのはきわめて当然のことであった。
 本書は島村が晩年までおのれの功を誇ることなくサイレント・ネイビーの精神に徹しつづけたこと、金銭欲がまったくなかったことなどもよく跡づけていて、味わい深い読物にもなっている。もって日本近代史に関心をお持ちの諸氏に、ひろくお薦めするゆえんである。
(本書販売用パンフレットより。)