涙袖帖 久坂玄瑞とその妻
伊賀上 茂
マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和19年
   2014年刊行 A5判 並製(ソフトカバー)函入 310頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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久坂玄瑞とその妻 『涙袖帖』のこと 
  作家 秋山香乃
 久坂玄瑞の妻――お文さん≠ニ聞いて真っ先に浮かぶエピソードがある。松陰が愛弟子玄瑞の将来に期待し、歳の離れた愛妹文子を嫁がせようとしたときの話だ。玄瑞は、こともあろうか、文子が不美人だからと一度は断ろうとしたというのである。嘘か本当かは、わからない。歴史上の有名なエピソードは、実際は後世に作られたものであることが多いからだ。

 それにしても、妙な逸話が伝わったものだと気の毒に思う。これでは文子があんまりだ。残念なことに、松陰の妹であり、玄瑞の妻でもある、高名な二人に挟まれて過ごした稀有な女性文子が、このエピソード以外で表だって語られることは、ほとんどない。
 それが……文子を中心に綴られた物語があったのだ。本書『涙袖帖』である。これは大きく二篇から成り立つ。前篇は、「久坂玄瑞が愛妻文子に与えた一束の手紙を基にして」真の勤王志士の姿と、夫のはたらきに己のすべてを捧げつくした妻の姿を、「物語風」に描いている。そして後篇は、文子の兄吉田松陰が、「愛妹児玉千代に与えた教訓」に、わかりやすく解説を加えたものである。

 筆者は、伊賀上茂氏だ。驚いたことに、昭和19年という太平洋戦争の真っただ中、本書は発行されている。そのためか、『涙袖帖』に戦時の思想の影響は、色濃く出ていると言わざるを得ない。筆者が本書を記したのは「日本婦道の道標」を著したかったからであり、物語の冒頭の文子のけなげな姿は、涙を隠して太平洋戦争で夫を送り出す昭和の妻たちの姿と、どうしても重なってしまう。それはそれで、戦時の我が国の空気や思想を知る貴重な手がかりと成り得るが、純粋に幕末の物語の一つとして手にしたときは、やはり気が散るというべきか。本書の数少ない瑕疵の一つだろう。
 しかし、読み進めるに従い、読者は玄瑞の峻烈な生き方に息を呑み、その死に様に胸を打たれ、すぐに物語の世界に没入していくことになるのだ。

 少し詳しく見ていこう。物語は玄瑞の死――禁門の変から始まる。玄瑞は長州勢の若き指導者の一人として進発には反対しつつも、古参の来島又兵衛らの激烈な主張を押え切れず、京への進行を決める。前夜、朝敵の汚名を雪ぐ嘆願の望みは捨てぬものの、死を覚悟した玄瑞は、友らと水杯を交わした。直後、叩き込むように筆者は鋭い筆致で戦乱へと長州勢を突入させる。諸藩が討伐と称して長州方へと襲い掛かる。周り中が敵だらけの中、膝を爆裂弾の破片で抉られた玄瑞は、もはや是非がないことを悟る。長州は負けたのだ。立て籠もった前関白鷹司邸が炎に包まれる中、玄瑞が自刃へと追い込まれるのは歴史の通りだ。が、これまでに目にした玄瑞の最期を描いたどの作品よりも、この『涙袖帖』は鮮烈だ。ここで詳細に述べるわけにはいかないが、松門の絆の深さに瞠目し、友らと交わす玄瑞の会話に目頭が熱くなる。そして、玄瑞は妻文子へも思いを馳せるのだ。結婚して八年、そのうち共に過ごしたのは正味二年。文句ひとつ言わなかった文子へ、玄瑞が最後に何を思ったかは、ぜひご自身で目にしていただきたい。

 玄瑞の死後、文子は長い時を経て、玄瑞とは「骨肉以上の深い関係に結ばれた同志だった楫取素彦に再嫁する。素彦も再婚だ。夫を亡くした文子と、妻を亡くした素彦。互いに愛する者を別に持ちつつ結ばれた二人のやり取りが秀逸だ。先夫、玄瑞を忘れられず、その遺品を抱いて「まるで奉公人にでもなる気持ちで」嫁ぐ文子。一方、そうと知って受け入れた素彦も先妻が忘れられず、二人は互いに同じ傷を持つもの同士、静かに穏やかに労わり合う。こんな夫婦の形も確かに在るのだと頷きつつ、どうにも切ない気持ちにさせられる。何といっても素彦の先妻は、文子の姉、壽子なのだ。長い物語ではないが、何とも複雑に人情が絡み合っているではないか。

 一見、凪いだ湖面のような波風のない夫婦の、互いに腫物を扱うような緊張した関係は、とある文子の行動から一変する。玄瑞の手紙をこっそり焼いて自分の気持ちにけじめをつけようとしたのだ。その姿を見てしまった素彦。直後に素彦のとった行動と文子に掛けた言葉は、何度読み返しても胸がじんと熱くなる。間違いなく本書の山場であり、一番の読みどころだろう。ここでばらしては、お叱りの嵐に違いない。 

 『涙袖帖』は文子の物語であるが、同時に千代や壽子ら三姉妹の物語でもある。光が強ければ、影はよりくっきりとした輪郭を持つ。彼女たちは物語の中でそれぞれ強い光を相手に、濃い影となって存在感を放つ。千代には兄の松陰。壽子には夫の素彦。文子には玄瑞。運命に散り、あるいは翻弄されつつも道を開いた男たちを鮮やかに照らし出すことで、その影で常に歯を食いしばって笑みを絶やさず支え続けた女たちの献身と、彼女たちの香り立つ瞬間さえも、筆者は松陰の三人の妹を軸に見事に描いてみせるのだ。それゆえ、ここに登場する三姉妹は、みなはっきりと性格が違う。笑いどころも泣きどころも違う。同じものを見ても違うことを感じている。通り一遍の造形ではないゆえ、ただの薄っぺらい物語上の女たちでなく、生きた女として、読む人それぞれに何かしらを語りかけてくれる。だれが何を語りかけてくるかは、読む人のそのときの有り様によってきっと変わるのだろう。

 本書には他にも楽しみがある。読者は、意外なまでに人間らしい松陰の姿を読み取ることができるだろうし、彼の好物が何かを知ることもできる。さらに松陰が胎教のことを語る個所は、新鮮な驚きと共に頁を捲ることができるに違いない。松陰≠読みたい人にとっても、本書は優れた読み物なのだ。
(本書パンフレットより)