幕末・明治史研究に不可欠 井上馨、最高・最大の伝記
世外井上公伝 全5冊揃
 井上馨候伝記編纂会
  マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和8年
   2013年刊行 A5判 上製函入 分売不可 パンフレットPDF(内容見本あり)
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 維新人物伝中の雄篇 『世外井上公傳』を推す
  紀田 順一郎
 明治末期から昭和戦前にかけて、維新の元勲といわれる人々の浩瀚な伝記が数多く出版されているが、『世外井上公傳』はそのような伝記の掉尾を飾る一冊(全五巻)として、維新史研究者はいうまでもなく、伝記出版というテーマからも見逃せない好著である。

 明治四十三年(1910)の時岡孫彌『大久保利通傳』にはじまる資料中心の伝記出版の動きは、的野半介『江藤南白』(1914)、『大隈公八十五年史』(1926)などが先鞭をつけているが、間もなく伝記自体よりも『三條実美年譜』(1901)、『岩倉公実記』(1906)、『木戸孝允文書』(1929)、同『日記』(1932)など資料中心の時代に移行してしまい、むしろ『伊藤公全集』(1927)や『板垣退助全集』(1931)などの形態に発展していった。そのあとに本書が出版されたわけだが、編纂中にも尾野実信『元帥公爵大山巌』の進行が伝聞され、関係者をやきもきさせたのではあるまいか。

 このような流れを振り返ってみると、井上の事籍は並の伝記では収まりがつかないし、いまさら単なる資料集でもあるまい。さりとて全集には適さないということになり、そうした配慮や逡巡が遅延の原因と推測される。維新の元勲の中でも、中道に倒れた大久保利通や西郷隆盛、閣外に去った板垣退助らと異なり、時期によって濃淡はあるが、井上のように長期にわたって国政の中枢であり続け、その事情に精通していた存在は、あまり多くはない。資料中心の伝記が待望された所以である。

 井上馨の伝記は、すでに明治三十年(1897)、史談会編『井上馨卿伝』や渡辺修二郎『評伝井上馨』、中原邦平『井上伯傳』が出ているが、幕末期だけに限ったもので、明治以降の事歴にはふれなかった。それ以後も財政面や条約改正などの各論に限定したものばかりで、井上の全業績を網羅し、同時代史的な展望を行った伝記は実現しなかった。理由はその活動領域が政界、実業界と幅広く、関わった事件もすでに記したものを除いても、幕末の有事奔走から新政府でのキリスト教取締、版籍奉還、尾去沢鉱山疑獄、藤田組贋札事件、大阪会議(征韓論対立)などのほか、清韓問題、いわゆる鹿鳴館外交などを含めると多岐を極める上、政争がらみで後世の評価が一定しない項目も多く、井上の意向に合致しなかったためとも思われる。

 本書巻末(第五巻)の「編纂経過」(筆者は阪谷芳郎と推定される)によると、井上からは早くから「完備」した伝記の編纂を「懇望」されていた関係で、有志らの間で論議されており、昭和三年(1928)に入って各方面に編纂協力依頼の文書を送付したとある。期間は五ヶ年、費用は六年間に十三万円余を要した。資料提供者七十四人(個所)、談話者百二十余名である。史家や学者を中心とした編纂員(執筆者)数名のほか、速記者、タイピストなども雇用した大がかりな事業となり、規模の点では空前絶後といえるものだ。

 ボリュームに伴って内容も詳細となり、なかんずく井上が深く関わった財政と外交については実証的かつ緻密である。前者はとりわけ新政府の財政改革、国債の創設、銀行設立、貨幣制度の創始というあたりが圧巻で、後者は条約改正をめぐる与論との駆け引きなどに委曲が尽くされている。そのほか比較的小さな事件でも、たとえば過渡期における長崎でのキリスト教禁圧事件なども、新旧思想対立という背景の説明で、政府側の苦衷も推察できるし、藤田組贋札事件も薩長の勢力争いが高じた結果と指摘されると、ある程度納得させられるのである。

 見方を変えると、本書の今日的な価値は、井上馨という政治家の生涯を経とし、同時代の文書や証言を緯とした「資料で読み解く幕末明治史」というところにあろう。大部の伝記だが、ぜひ通読をおすすめしたい。
(本書パンフレットより)


 『世外井上公伝』の魅力
  萩博物館特別学芸員 一坂 太郎
 井上馨は一日も早く、日本を西洋列強と並び立つ国に成長させるといった「志」を持つ、ナショナリストでもあった。明治なかば、井上がいささか強引ではあるにせよ、伊藤博文・大隈重信とともに日本近代化の牽引力であったことは、誰しも認めるところであろう。
 明治はじめ、井上が盟友伊藤博文にあてた手紙などに頻出する、キザでイヤミで、ちょっとコミカルなカタカナ外国語に、私はこの人物の国際人たらんと努力した一面を見る思いがする。「ハンクと金銀取引之都合」「一日も早くテキチヤージする事」「コンミニケーシヨン薄きよりして」「インダイレクト之損害」「何卒ワイフに御見せ」「ワイフもイシイッキ(船酔い)候得共」「竹添公使のアクシヨン」などなど、これらはほんのわずかな例に過ぎない(『伊藤博文関係文書』より引用)。

 そうして見ると、井上が銀座レンガ街計画を進めたり、鹿鳴館を建てて条約改正を実現しようとしたのも、なんとなく理解出来る気がしてくるから不思議だ。
 暴走、迷走、時に失敗することもあったが、井上のナショナリズムは排他的なそれとは違っていた。それから数十年後、日本は「ワンストライク」を「いい球一本」と呼ばなければ野球も出来ないような、ナショナリズムを履き違えた窮屈な国になってゆく。昨今タカ派を気取る一部の政治家たちが、うさん臭いナショナリズムを煽り立て、自分への支持につなげようとするおぞましい姿を見るにつけ、考えさせられるものがある。このあたりで、懐の深いナショナリスト井上の再評価が進んでもよいのではないか。

 井上の正伝である『世外井上公伝』全五巻が、いよいよ復刻されることになった。昭和九年に出た元版はもちろん、戦後の復刻版もなかなか古書市場に出て来ないし、出て来てもかなり高価なので、私の周囲でもマツノ書店の復刻に期待する声をちらほらと聞く。だが、復刻を誰よりも喜んでいるのは、地下の井上ご本人であろう。人間誰しも自己顕示欲を持っているだろうが、井上のそれは時に異常であり、しかも年齢を重ねるごとにひどくなったように見える。
 存命中の明治四十年五月、中原邦平に書かせた幕末期の伝記『井上伯伝』を出版(これはマツノ書店がすでに復刻)。明治四十三年三月には快気祝いの席に講談師伊藤痴遊(仁太郎)を呼び、幕末山口での自身の遭難事件を語らせた上、あれこれとアドバイス。ついには興津別荘の庭に、自分の巨大な銅像(どれくらい大きかったかは、『世外井上公伝』五巻掲載の写真をご覧あれ)を建立してもらうのだから、恐れ入る。

 幕末、井上青年はイギリス公使館に放火し、ロンドンに秘密留学する熱血漢だった。だが、明治になって絶大な権力を握るや、財界と癒着し、汚職事件に関わったのも事実である。このためか、同じ長州出身の伊藤博文や山県有朋は、年下にもかかわらず何度か宰相の椅子に座ったが、井上には巡って来なかった。爵位も伊藤・山県は公爵だが、井上は一段下の侯爵だ。そうしたコンプレックスの裏返しが、自分で自分を顕彰するといった行為だったような気がしてならない。

 ある時井上は面白くないことがあり、東京を飛び出し、興津の別荘に引き籠もった。
「人間をやめて世外にすむからだ 猿にしておけさるにしておけ」
 などと歌ってニヒルを気取ったつもりだろうが、世外に棲む猿になど到底なれない俗臭が漂っているから、実におかしい。しかし、そういうことは本人もご承知だったようで、還暦のさいは開き直ったのか、「けふよりはもとの赤子にかへりけり 皆ちゃん御免だゝをこねても」と、茶目っ気あふれる歌も残しているから、一抹の可愛らしさも感じられなくはない。いま流に言えば「キャラ」が立っているというのが、井上という人物の魅力のひとつと言えそうだ。

 それは『世外井上公伝』の編者も心得ていたとみえ、第五巻で「性格及び逸事」「諸家の評論」という章を設けて、二百ページ以上(これだけで、通常の単行本一冊分はある)にわたり、さまざまな逸話を紹介している。毎朝冷水浴をしたとか、年中薄着で過ごしたとか、珍妙な料理を客に出したとか、贔屓の俳優や落語家を支援したとか、建物を設計したとか、生々しい井上像が紹介されている。数ある明治の軍人や政治家の伝記の中で、これほど人間味あふれる内容のものも珍しいのではないか。また、丁寧な索引が付いているのも有り難い。

 井上は大正四年九月四日、八十一歳で没。割りと長生きをしてくれたおかげで、私の周囲には二十数年前までは、井上の残像のようなものが転がっていたように思う。
 たとえば明治四十四年五月、山口県厚狭郡吉田村清水山で行われた、高杉晋作顕彰碑の除幕式に駆けつけた井上は、炎天下で声涙くだる大演説を長時間(一時間とも二時間とも)続けた。そのため、参列させられていた地元の小学生たちが、つぎつぎと日射病で倒れたという話を、近所に住むお爺さんから、うんざりするくらい何度も聞かされた。実はこのお爺さんは七十数年前、倒れた小学生のひとりだったのである。

 あるいは高杉家が東京麻布に居を構えていたころ、晋作の息子の嫁茂子は近所に住む井上の茶飲み友達だったらしい。ある時、井上が「今度わしの孫が小学校に上がった」と言うから、茂子は近所の小学校の名を出したら、井上が急に不機嫌になって「ナニ、ウチは学習院じゃ!」と言ったという。これは高杉家に伝わる話として、先年亡くなった晋作曾孫高杉勝さんから聞いた(確かに『世外井上公伝』五巻にも「或は長井雅楽・高杉晋作その他の遺族を眷顧してゐる」とある)。さらには私の曾祖父も、ある筆禍事件で除族(士族から除かれる)されかけたところを、井上に助けてもらったようだ。

 ともかく、幕末、明治の歴史に関心を抱く者にとっては必備の文献であり、今回の復刻は朗報であろう。
 ついでに、この場を借りて井上絡みのニュースを一つ。先に述べた、井上の山口での遭難事件を題材とした講談は、長らく上演されることもなく、台本も行方不明となっていた。何とか探して欲しいと、以前からある方に懇願していたのだが、先日見つかったとの朗報をもらった。いま、それをライブで楽しんでもらう企画を進めているところである(今秋萩で)。明治の大衆が親しんだ井上像が再現される日も近い。こちらも地下の井上は、喜んでいるだろうか。
 今年(平成二十五年)は井上が決死の覚悟をもってロンドンに密航留学してから、百五十年の節目にあたる。
(本書パンフレットより)