白虎隊やうら若き女性たちの哀切きわまる証言、聞き書きでも知られる、総ルビの名著
会津戊辰戦争 増補・白虎隊娘子軍高齢者之健闘
  平石 弁蔵
  マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和4年(第5版)
   2012年刊行 A5判 上製函入 570頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
    ※ 価格・在庫状況につきましてはHPよりご確認ください。
マツノ書店ホームページへ



復刻に際して
■「第5版」の長所
現在古書市場に出回っているのは、すべて「第4版」までか、それを墓にした「昭和51年復刻版」で「第5版」は殆ど見ません。「第4版」の翌年「第5版」が刊行されたのに「復刻版」はなぜ、「第4版」を使用したのか?その存在が知られていなかったためとしか言いようがありません。
 「第4版」「昭和51年復刻版」と今回小社が復刻する「第5版」との相違は、本文の内容は同じでも、全頁の版面から邪魔な線が取り去られ、すっきりと読み易い紙面になっていることです。
■「第5版」は「ロ絵写真」が8頁多く、「文中の写頁」十枚はすべて差し替えられていますが、復刻に際して「文中の写頁」十枚の内五枚を、より適切と思われる「第3版」「第4版」のそれに戻しました。
■今回の復刻版は写頁のように、これまでの諸版とは見違えるほどの装丁で、紙質も印刷も優れており、自信を持ってお勧め致します。 また中村彰彦氏の提供により巻末に貴重な「巻末付録」(目次参照)を付しました。

『会津戊辰戦争』 略目次
口絵写真 73点  地図3枚
第一章
・松平家の施政と日新館教育並に会津人士の気風
・徳川氏の禍根
・容保守護職時代の概要
・徳川氏政権奉還
・伏見鳥羽の戦
・彰義隊の戦
・総野の戦

第二章
・奥羽越同盟
・総督府参謀世良修蔵を斬る
・会津の決心隊伍の編制及其の部署
・東西両軍の策戦
・新発田藩救援を会津に請ふ
・長岡藩憤慨開戦に決す
・小千谷方面の戦
・桑名藩拍崎の領地に拠りて戦ふ
・片貝方面の戦
・榎峠の戦
・長岡城陥り藩主会津に遁る
・長岡城の争奪戦及新発田藩の反覆
・加茂の戦
・津川の戦

第三章
・白河口の戦
・棚倉藩の苦戦
・平藩の苦戦
・三春藩西軍に降る
・本宮の戦
・二本松藩の苦戦城に火して退く 野津元帥追懐談
・相馬藩遂に西軍に降る

第四章
・東西両軍の形勢
・西軍の討会策
・母成峠の戦 大鳥圭介の苦載
・猪苗代亀ケ城陥る
・十六橋の戦 川村元帥の追懐談
・戸ノロ原の戦及白虎隊の白刃 蘇生者飯沼氏の談
・蚕養国榊牡附近の戦闘並桑名藩の力戦
・北追手門の激戦白虎一番隊の奮闘
・天神橋の血戦並城兵の夜襲
・天寧寺町口小原砲兵隊の苦戦
・西軍の侵入城下の混雑
・会津藩士家族の殉難 柴将軍の追懐談
・国境守兵の帰城 山川大蔵の奇智
・涙橋の戦婦人の出撃
・小田山西軍の有となる 会藩士極楽寺の僧を斬る
・長命寺の戦
・木曾口(山都附近)の戦
・越後口の西軍漸く若松に入る
・日光口大内峠及関山の戦 笹沼金吾の奇襲
・材木町住吉祠裏及飯寺川原の戦
・若松城下の兵営市焦土と化す
・熊倉附近の戦 大鳥圭介函館に向って去る
・鶴ケ城の総攻撃
・糧道を開かんとして城南に戦ふ 内藤上田両家の殉難
・高田方面の戦小櫃與三郎の壮烈
・籠城中の苦心 戦死高齢者氏名

第五章
・会津の開城
・伊南方面の戦
・会津の処分
・容保二帝の殊恩に浴す
・英照皇太后の御仁慈と松平の光栄⑥
・殉難白虎隊十九士小伝
・戦死者の合葬並祭祀
・戦後の談片
・伊太利国民寄贈の白虎隊記念碑式

■巻末付録会津女性の戊辰戦争回顧録
新島八重子(新島嚢夫人)、山川操子(山川健次郎姉)、長谷川みと子。
講演原稿の雑誌掲載文。(計25頁)

  読み応えのある史書 平石弁蔵『会津戊辰戦争』
   作 家 中村 彰彦
 時に辞典類の書評を依頼されることがある。
 吉川弘文館刊『戦国人名辞典』、角川学芸出版刊『江戸時代語辞典』などはその一例だが、辞典類の良し悪しを見定めるには、解説文が読んで楽しい文章から成っているかどうかだけをチェックすればよい。編者がどんな大学者でも、無味乾燥の解説文を書いて満足しているようではいけないのだ。

 さて、会津戊辰戦争に関する史書としては、北原雅長輯述『七年史』上下巻、男爵山川浩遺稿『京都守護職始末』、男爵山川健次郎監修『会津戊辰戦史』など、すでにマツノ書店から復刊された名著を挙げることができる。
 これらの史書に共通するのは、著者がいずれも旧会津藩士であったため会津藩史料に精通しており、それらの史料によって幕末維新期の同藩の水面下の事情をあきらかにする、という精神に貫かれていることだ。
 ただし、これらの史料に引かれる史料は和風漢文だったり候文だったりすることがほとんどなので、このような文体に馴染みのない人にはやや取っつきにくく感じられるかも知れない。
 対して平石弁蔵の労作『会津戊辰戦争 増補白虎隊娘子軍/高齢者之健闘』の最大の特徴は、平易な文章で書かれ、しかも漢字には総ルビが振られていてとても読みやすいことだ。読みやすさは読者のページをめくるスピードが増すことにつながるから、読者諸氏はこの史書を読むうちに、「読んで楽しい」辞書をひらいているのと同様の感興を覚えるに違いない。
 それではこの著者は何者なのかというと、国書刊行会刊『会津大辞典』にはつぎのようにある。
「平石弁蔵 ひらいしべんぞう 明治六年〜昭和十七年(1873〜1972)。旧会津藩士。会津戦争史家平石甚五郎の長男に生まれた。日清・日露戦役に従軍、陸軍士官を志し若松聯隊に勤務。山形聯隊から会津中学軍事教官に勤務し八年間奉職。陸軍少佐。大正六年『会津戊辰戦争』を著し、さらに調査研究を重ねて改訂版を出す。戊辰戦争史の定本となる。(以下略)」(傍点筆者)
 すなわち平石弁蔵は、旧会津藩士の家に生まれたものの戊辰戦争を知らない世代に属した。しかし、プロの陸軍軍人として日清・日露戦争の実戦も体験したことからそのプロの目で会津戊辰戦争の見直しを企図し、若松聯隊の若き将校たちの生きた教材とするために『会津戊辰戦争』を書き上げた。同書は大変読みやすいことから一般読書階級にも歓迎され、いつしか会津戊辰戦史をトータルに記述した史書の「定本」(代表的作品)とみなされるに至った、というわけである。

 同書が若松聯隊で教材として使用されるようになったのは大正六年(1917)五月に発行された直後のことと思われ、この時の題名は『会津戊辰戦争』というシンプルなものであったと考えられる。私の架蔵しているのは昭和三年(1982)十二月二十八日に発行された「改訂増補第四版」だが、その奥付にはそれ以前の同書の発行の歴史が左のように明記されている。
 大正六年五月一日発行
 大正六年八月二十日再版
 昭和二年十二月五日改訂増補第三版
 要するに同書が改定増補されたのは第三版からであり、この時から『会津戊辰戦争 増補白虎隊娘子軍/高齢者之健闘』というやや長めの題名が使われることになったのだ。その発行所は会津若松市の丸八商店出版部であったが、昭和三年は慶応四年(九月八日 明治改元)から六十年目の戊辰の年にあたっており、東京日日新聞が前年暮から「戊辰物語」を連載、子母沢寛が五月に万里閣書房から『新選組始末記』を出版するなど、世は戊辰ブームに沸き返っていた。丸八商店出版部が昭和二年十二月五日という時点で「改訂増補第三版」の刊行に踏み切ったのは、平石が初版の上梓後も「調査研究」を続行していた努力を別にすれば、このような時流に鑑みてのことだったに違いない。ちなみに、昭和三年の戊辰ブームとそれ以降のブーム――たとえば明治百年ブームや坂本龍馬、新選組ブームとの決定的な相違は、前者の頃には戊辰戦争の体験者がまだかなり生きていて、書き手にその気さえあれば新証言を引き出すことも可能だった点にある。

 前述の「戊辰物語」や『新選組始末記』にも生存者が筆者たちのインタビューに応じた結果である談話筆記がかなり多く盛りこまれていたが、平石もこのようなジャーナリステイックな手法を巧みに採り入れていて、本書には左のような人々の追懐談が紹介されている。
 薩摩藩出身の野津道貫、旧幕府歩兵奉行大鳥圭介、やはり薩摩藩出身の川村純義、会津藩白虎士中二番隊の生き残り飯沼貞吉(のち貞雄と改名)、おなじくまだ十歳だった会津藩士柴五郎、土佐藩士中島信行、鶴ヶ城に籠城して戦った山本八重(後の新島襄夫人)会津娘子軍生き残りの水島菊子、おなじく中野優子(竹子の妹)。
 「会津娘子軍」とは城外で戦った会津女性たちを仮りにこう呼ぶのであって、このような隊名があったというわけではない。
 それにしても、これら会津戊辰戦争体験者の談話には迫力がある。慶応四年八月二十三日早朝、新政府軍が若松城下(今日の会津若松市)に突入したと知ってみずから死を選んだ会津藩の老幼婦女は「二三〇余人」(『会津若松史』第五巻)に及んだが、家老職にあった西郷頼母の屋敷では一族二十一人が一斉に自刃した。その直後に西郷邸に入りこんだ中島信行は、左のように回想している。
「自分等は一挙して会津城を攻め落とさうといふので、城門の前に押し寄せた所が、其所に大きな屋敷があつた。頻りに鉄砲を打ち込んで見たが、一向に人の居る様子がない、其れから打ち方を止めて内に入つて、長い廊下を通つて奥座敷に行つて見ると、婦人達が見事に自殺をして居た、その内十六七歳のあでやかな女子が未だ死に切らないで足音を聞いて起きかへつたが此時はもう眼が眩んで見えなかつたらしく、幽かな声で、
『敵か味方か。』
 といつた、自分はわざと
『味方だ』
 といつた所が、身をかき探つて懐剣をさし出した、それは、之れにて命を止めて呉れといふ事であつた、自分は見るに見かねたから、涙を振つて首を斬つて外に出た云々と」。

 今日、この「十六七歳のあでやかな女子」とは西郷頼母・千重子夫妻の長女で十六歳だった細布子と考えられている。このように哀切な逸話を後世に伝えることも歴史家の仕事の一部であってみれば、ほかに飯沼貞吉の談話によって白虎士中二番隊の少年たちが猪苗代湖に近い戸ノ口原で戦い、敗走して飯盛山で切腹するまでを詳述するなどした本書がよく読まれてきたこともゆえなしとしないのである(ただし、同隊の隊長日向内記が食料調達を理由に陣地から姿を消したとする平石説は、最近、冨田国衛氏によって明確に否定された。)
 もうひとつ付け加えると、近・現代の軍隊では「兵要地誌」といって、軍事的に重要な地点の地理を頭に叩きこんでおくことが要求される。平石弁蔵はプロの軍人だけに会津戊辰戦争を語るのに不可欠な「兵要地誌」も抜かりなく押さえており、そのセンスの良さはカラー版で折りこまれた「鶴ヶ城包囲戦戦闘経過要図」「会津付近戦闘経過要図」「若松城要図」や本文ページに掲載された古写真、略図によくあらわれている。
 近年の歴史雑誌には、ビジュアルな作りのものが珍しくない。だが、昭和初期の出版でビジュアルな構成を志向した史書は貴重である。
 本書はこのような点でも読み応え、見応えのある一冊となっているので、もって同好の皆さんにお薦めしたい。
(本書パンフレットより)