真摯な生き方とユニークな活動で同時代人を心酔させた、松陰最愛、謎多き志士の生涯
増補 松陰先生と吉田稔麿
 来栖 守衛
 マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和13年
   2010年刊行 A5判 上製函入 430頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『増補 松陰先生と吉田稔麿』 略目次
第一章 総説
松陰先生の閲歴
本書編述の動機及來歴

第二章 本書の記述
榮太郎の出生地
家系は年次になれる記事
・ 幼時のこと
・ 松下塾に於ける教育
・ 安政四年榮太郎の江戸行後
・ 松陰の再入獄後の榮太郎
・ 萬延以後榮太郎の活動
・ 準士取建及改名後の稔麿
・ 稔麿の最後池田屋事轡

第三章 逸話

第四章 稔麿に対する編者の概観
・ 一般的評論
・ 松陰先生の稔麿に封する教育の探究

第五章 序論 教育精紳及師道の探究
・ 儒敦の教育精神及師道と松陰の教育精神及師道との異同
・ 昔時の教育精神及師道と明治以後の教育精紳及師道との異同
・ 教育及師道の精髄

第六章 松下村塾以下同塾教育の骨子と見るへき文書

第七章 参考資料
甲吉田家保存の文書
(一)稔麿筆御製及藩侯の詠 (二)吉田稔麿年譜 (三)両斧録 (四)父母宛書簡 (五)父母以外に対する書類 (六)意見書及其他遺文意見書家譜祭文 (七)松陰先生よりの書類 (八)他より稔麿に対する文書高杉以下の送序書類 (九)妻木其他よりの辞令及び書簡 (十)文久三年江戸行の時妻木其他書簡 (十一)稔麿宛以外の参考文書乙
吉田家以外に保存の文書
(一)東風不競密話管見 (二)其他所藏に係るもの伊藤俊輔宛書簡

【増補 略目次】
吉田稔麿の政治思想(三宅紹宣)
@吉田松陰のもとでの修学
A江戸における政治活動
B尊王撰夷運動と屠勇取り立て献策
C幕長融和策の取組
D吉田稔麿の政治思想

幕末志士達のアメリカ独立戦争認識(三宅紹宣)
@吉田松陰のアメリカ独立戦争認識
A吉田稔麿のアメリカ独立戦争認識
B中岡慎太郎のアメリカ独立戦争認識
C伊藤博文のアメリカ独立戦争認識

池田屋事変における吉田稔麿(町田明広)
@これまでの該事変と稔麿
A長州側史料に見る稔麿
B事変の真相-池田屋にいなかった稔麿
C通説の検証と桂の行動
D稔麿の上京事由と周旋先





  吉田栄太郎(稔麿)の魅力
   萩博物館特別学芸員 一坂 太郎
 吉田栄太郎(稔麿)は歴史の教科書はおろか、山口県のお国自慢にもあまり登場しない「幕末の志士」だが、以前から若い女性の歴史ファンの間では、ちょっとした人気者らしい。その理由は大きく分けると次の二点だと、私は思う。
 一点目は、栄太郎の経歴が他に類を見ないほど波瀾万丈で、面白いこと。萩・松本村の貧しい下級武士の家に生まれた栄太郎は、江戸で黒船騒動を体験した後、松下村塾で吉田松陰に師事。松陰から無逸の字を贈られ、かわいがられた。後世、高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一と共に「松門四天王」のひとりに数えられる。

 万延元年(1860)には脱藩して諸国を巡った後、江戸に出て幕臣妻木田宮に仕えた。幕府内部で「勤王」を説こうと考えたからという。しかし、文久二年(1862)、許されて長州藩に復帰。翌三年、屠勇取立を建白し、外国艦を砲撃して、奇兵隊にも参加。過激派が幕府使節を暗殺した朝陽丸事件を解決するなど、その特異な人脈を駆使して幕府・長州藩間の調停にも奔走した。

 だが、元治元年(1864)六月五日、京都三条の池田屋事変で新選組と戦い、負傷して自害した。享年二十四。同年七月十九日、「禁門の変」で長州藩は敗れ、孝明天皇から朝敵の烙印を押されることになる。

 若くして亡くなったにもかかわらず、栄太郎には本人が書いた文書類や周囲の関係史料などが、意外なほど多く残されている。中でも各地から故郷の両親にあてた手紙は、栄太郎の人柄を伝えて余りある。

 たとえば、私が面白いと思うのが文久二年(1862)三月十五日付、母あての手紙。名代となり地方へ出向いた栄太郎は、代官や庄屋、村役人も自分の思いどおりに動いたと喜ぶ。その時の様子を、「道々百姓どもかがみ、村役人も名主も二の間よりきげん(機嫌)をうかがひに参り、実はきうくつ(窮屈)にこれあり候えども、かやうあい成り候こそ武士の本意にござ候。およろこび下され候」と、得意絶頂の面持ちで知らせる。優れた資質を持ちながらも、下級武士ゆえのコンプレックスを抱き続けていたことが、垣間見える。

 あるいは、栄達を遂げた栄太郎が、そのことを母に知らせた文久三年七月六日付の手紙には、「まず一番に吉田(松陰)先生に御みき(神酒)・御さかな御あげ成され候」とあり、松陰に対する並々ならぬ思いが吐露されている。もっとも、この時の出世は松陰に師事したことが直接の理由だから、なおさらだったのだろう。
 また同じ手紙で「吉田栄太郎」という同姓同名人がいるため、名を変えるとも知らせる。さらに七月七日付、両親あてにの手紙では、椿八幡宮の神主青山上総助に依頼して「年麿」の名をもらったとも言う。これにより「吉田稔麿」という、いささか個性的な名前に至った事情が分かる。

 このように人物像がリアルにうかがい知れるのが、人気要因の二点目だと思う。マイナーで、あまり手垢が付いていないというのも、新鮮でいいのだろう。
 さて、その手紙類の大半はこのたびマツノ書店から再度復刻される、来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』に収められており、読むことが出来る。昭和十三年(1938)、山口県教育会から初版が出た、栄太郎こと稔麿唯一の評伝だ。

 著者の来栖は当時七十六歳で、教育畑を歩んだ人。「先生(松陰)と門生一人との関係に於て精細に尋究することの最益多かるべきことを思ひ、予は先づ先生最愛の門生にして、松門四天王の一と称せらるゝ、才性秀抜、其行動特に変化曲折多くして且未だ其の詳伝を見ざる吉田稔麿」を選んだと述べる。

 私は現在、本書の骨子のひとつである「吉田家保存文書」の翻刻編纂に取り組んでいる。雑務に追われ、遅々として進まぬが、いずれ出版したいと考えている。現存する史料を本書と比較すると、たとえば父・母または両親あての手紙は合計二十七通あるのだが、うち全文が活字になっているのは十六通で、残りは抄録、要約、省略となっている。
 そうした問題点は残しつつも、本書が吉田栄太郎の実像を史料から読み解く、最高のテキストであることには異論がない。幕末の動乱に身を投じた、一人の若き草莽の息吹が伝わる好著である。
(本書パンフレットより)


 吉田稔麿と明治維新史研究    
  広島大学大学院教授 三宅 紹宣
 吉田稔麿については、その真摯な生き方に心ひかれるものがあり、古くから愛着のある人物である。とりわけ吉田松陰との師弟交流が好きである。安政四年、稔麿が江戸に出発するにあたり、松陰は上張地を贈っている。その文に、「贈り物は粗末であるが、心をこめているところは粗末ではない」とあり、質素だが心のこもった交流がうかがえる。虚礼に流れるつきあいからは距離を取りたい気分のある自分にとって、まさに理想である。

 さらに、稔麿は、明治維新史研究を進展させる上で重要な意義を持っている。最近、攘夷論について否定的論調が広まってきている。攘夷は、世界の大勢を知らない無謀な主張であり、それに対し、幕府は合理的、理性的に対応し、これにより独立が保てたとする見方である。しかし、この説明では、なぜ志士達が困難な状況にもかかわらず立ち上がり、近代国家を作ったのか説明できない。よって、追求しなければならない研究課題は、志士達の政治思想を具体的に明らかにしていくことである。
 
稔麿の政治思想を分析すると、松陰のもとで、世界情勢を熱心に勉強しているのが印象的である。そして攘夷が困難であることも充分承知している。にもかかわらず、独立を保つためには、西洋列強に抵抗する姿勢を打ち立てるしかないとする。そして困難を克服した事例として、アメリカ独立戦争があるとし、それを理想としているのである。

 この考えかたは、久坂玄瑞、伊藤博文、長州藩で活動した中岡慎太郎などにも見られるものであり、その源は松陰にある。松陰からの流れを分析したのが「幕末志士達のアメリカ独立戦争認識」である。中でも最も鮮明な事例は稔麿である。稔麿についての関心がさらに高まり、研究が深まることによって、明治維新史研究がより発展することを祈りたい。
(本書パンフレットより)


   異色の志士・吉田稔麿の魅力
     佛教大学非常勤講師 町田 明広
 最初に稔麿と出会ったのは、今から四十年近くも昔の小学校五年生の時である。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」を初めて読んで、その時から幕末の魅力に取り憑かれている。中でも、稔麿の印象が極めて鮮烈であった。
 池田屋事変の描写の際に、尊王志士・稔麿は凛とした清々しくもある態度で新選組を迎え撃ち、しかも、回避できたにもかかわらず、非業の死を遂げてしまった。余りに惜しい。その時のインパクトが、継続している。

 そもそも稔麿は、吉田松陰の最愛の弟子であり、久坂玄瑞や高杉晋作といった錚々たるメンバーに連なり、極めて異色な経歴を持った志士であった。しかも、龍馬にも通じる、あまりに痛恨の最期である。後世の多くの人たちを魅了するのは、至極当然かもしれない。
 その後、卒業論文に稔麿を選んだ。そのユニークな事績を検証し、いかに幕末史に重要な人物かを論じたつもりである。その際に、最もお世話になったのが、今回再復刻される『松陰先生と吉田稔麿』であった。本書はまさに、稀有な稔麿伝である。

 ところで、卒論のために史料を猟歩している時に、その劇的な死についての疑問が湧き上がった。そして史実を覆す、池田屋に稔麿がいなかったという新事実に突き当たった。震えるような感覚の中で、その真実に特化した論文を執筆して世に問うたが、思いの外に反響が大きく、改めて稔麿の人気を痛感したものだ。
 さて、今回、珠玉の復刻に拙稿を掲載いただける僥倖を得た。初出から時間が経っているため、一部手直しを施している。それにしても、稔麿との縁に深い感慨を覚える。いつか忘れていた夢がある。平成の「稔磨伝」である。機会があれば、挑戦してみたいものである。
(本書パンフレットより)