戊辰戦記稀書中の稀書を読み易く拡大復刻
戊辰庄内戦争録 全2冊
 和田 東蔵(編)
 マツノ書店 復刻版 ※原本は明治29年
   2010年刊行 A5判 上製函入 計1033頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『戊辰庄内戦争録』復刻に寄せて         
  庄内酒井家十八代当主 致道博物館館長 酒井 忠久
 この度、マツノ書店さんから、時代の変遷期における東北の壮絶なドラマである戊辰戦争、その史料として貴重な「戊辰庄内戦争録」が復刻出版される。
 幕末、庄内藩は、和平の道を模索しながら、その時代背景、歴史的環境のなかで戦わざるをえなくなっていった。しかし、決したからには庄内地域挙げて一致団結、武士道にのっとって、軍律厳しく敢然と戦った。敵味方区別なく戦死した兵を埋葬弔っていくなど戦さの中でも礼節を大切にしたという。

 庄内藩では、武士道と廉恥を重んじ、「武士道に背かざるものは、屠腹を命ぜられると雖も、家禄は尚子孫に賜うの特典あり」(庄内沿革史)、「武士たるもの恥を忘れては禽獣にも劣る」といわれた。

 また戊辰戦争後、菅実秀は、「国辱を灑がんと欲して荒城を出ず」と一篇の詩を酒井吉之丞におくっている。そして明治五年松ヶ岡開墾事業(鶴岡市)の創始の一つの大きな意図は、徳義を本として産業を興して国家社会のために報いて、戊辰戦争で賊軍といわれた辱を雪ごうとしたことにあった。廉恥、いかに無念であったか推察される。

 この戊辰庄内戦争録をまとめたのが、和田東蔵、和田は、庄内藩士和田又蔵の三男である。そして酒井家十代忠器の十男政易と十一男政明が、養継嗣となった出羽長瀞藩(現山形県東根市)一万一千石米津家の八代、九代に仕えた。

 文久三年庄内藩は、浪士組である新徴組を預けられ、その年十一月に江戸市中取締を受任した。和田は、慶応元年に新徴組取扱方を命ぜられ、戊辰戦争が勃発すると、清川口、小名部口に出陣した。明治五年戊辰戦争史料収集の命を受け、戊辰庄内戦争録を編んだ。著者自身、戊辰戦争に参戦しているだけに、共に戦った人々、同志の足跡を残し鎮魂のため、懸命に史料収集編纂に取り組んだことと思う。原本は鶴岡市郷土資料館にあり、紺の表紙に、和綴じで、九冊、流麗な自筆でかかれている。明治二十九年に活字化され、全四巻が出版された。今回の出版はそれを底本にしているとうかがった。今や入手困難だけに、復刻出版に大いに期待し、貴重な史料として愛蔵したいものである。
(本書パンフレットより)


  『戊辰庄内戦争録』に寄せて
       作家 中村 彰彦
 いうまでもなく戊辰戦争とは、慶応四年(1868)一月三日に勃発した鳥羽・伏見の戦いに始まり、九月八日の明治改元をはさんで翌年五月に箱館五稜郭が降伏開城するまでつづいた一連の内戦のことである。

 この内戦の舞台は明治新政府軍の東下に従って桜前線のように北上してゆき、慶応四年四月十一日に江戸が無血開城となって以降、その戦火は北関東及び東北地方の各地へ飛び火した。激戦地となった地名にもとづいて、宇都宮戊辰戦争、白河口戊辰戦争、会津戊辰戦争、越後口戊辰戦争などということばが史書で使用されることからも、一連の内戦の戦火がいかに広範囲にに及んだかが察せられよう

 このように戦火が拡大の一途をたどったのは、一方から見れば新政府が東海道、東山道、北陸道、奥州地方に鎮撫総督軍を巡遣し、特に佐幕派最強をもって鳴る会津藩二十八万石と庄内藩十四万石のある奥羽地方の諸藩にこれら両藩への討ち入りを命じたためであった。また別の角度から見れば、奥羽諸藩には京都守護職として足掛け七年間も公武の間にあって周旋に努めた会津藩に同情する気持が強かったため、奥羽列藩同盟(のちに奥羽越列藩同盟に発展)を結成して鎮撫総督軍に対向することに決定、この決定に従って藩境外へも出兵したことから大小さまざまの地域が戦場と化す運命をたどった、ともいえよう。

 そして、史書はこのような戦史の実態に即して編纂される。つとにマツノ書店によって復刊された名著『会津戊辰戦史』や『仙台戊辰史』がそろって題名に旧藩の名を冠しているのも、奥羽越列藩同盟参加諸藩にはそれぞれの事情と考え方があり、これら諸藩を一括りにして論じてもあまり意味をなさないからである。

 旧庄内藩士和田東蔵が畢生の大著を『戊辰庄内戦争録』と題したのもそのように思ってのことであろうが、和田東蔵は「巻一」(第一巻)に以下のように始まる「序」を付している。
 「此一部は我藩戊辰戦争の起原より謝罪に到る迄の記にして其事藩翰の已むを得ざるに出たる次第又君の為に命を惜しまぬ人々の跡をも伝えまほしく有のまゝにしるせるなり」
 いわば本書はこの戦いに散った人々に捧げられた〈紙碑〉なのだが、著者みずからが処々に顔を出して見解を述べる筆法をあえて取らず、史料をして語らしめる態度を固く守っているところに大きな特徴が見られる。

 また、全四巻の「目録」(目次)は次のように構成されている。
 「巻一」は「端緒」「清川之戦況」「吹浦口警備」「一番大隊戦況」。「巻二」(第二巻)は「二番大隊戦況」「三番大隊戦況」。「巻三」(第三巻)は「四番大隊戦況」「越後長岡応援及仙台応援」「鼠ヶ関口戦況」「小鍋口戦況」「関川口戦況」。第四巻は「附録」と題されていて、「戦地略図」「出張人名簿」「死傷調」「戦争余談」が収められている。
 「戦地略図」は二十三枚にも及んでいるので、地名に不案内なむきにはこれを見ながら本文を読むことをお勧めしたい。さらに右の「目録」から庄内藩は四個大隊編制であったことが知れるが、「大隊ノ人員ハ概シテ六百人内外」(「序」)。これらの藩兵のほかに多くの農兵、町人兵も参加していたことも大きな特徴であり、庄内兵はまことに強かった。この点について、大山柏『戊辰役戦史』下巻は左のように述べている。
 「荘内藩では編成装備も火兵戦に順応し、東北諸藩としては最も進んでいたが、これを西南諸藩と比較して決して優秀とは申し得ないにもかかわらず非常に強かったのは、各兵個々が精鋭であったうえ指揮者が特に優秀だったことによると判断せらるる」

 さらにこの強さをより深く分析すると、庄内酒井家は徳川四天王のひとり酒井忠次の嫡流であったこと、幕末には新徴組とともに江戸の市中見廻りを担当しており、薩摩藩邸に潜んで火つけ盗賊まがいの行為を働いていた浪士たちを撃退するという実戦を経験していたこと(薩摩藩邸焼き打ち事件)なども要因として挙げられよう。

 また農兵や町人兵が積極的に国境防備のために参戦したことについては、天保十一年(1840)十一月に幕府が庄内酒井家に越後長岡への転封を命じたときの、庄内領民たちの動きを念頭に置いておきたい。
 庄内藩の歴代藩主は民に優しい政治をおこなってきたため、領民たちはこの転封に大反対。五万人規模の大集会をひらく一方、続々と江戸へ出て幕府要路に対し、転封中止を嘆願して止まなかった。(小著『北風の軍師たち』〈中公文庫〉参照)。そのため幕府は初めての幕命撤回に追い込まれるのだが、このような上下の一体感が幕末になってもよく持続されていたため、農兵、町人兵たちは藩士たちとともに戦うことをためらわなかったと考えられるのだ。

 ために北の藩境(吹浦口)警備に出動した一番大隊に至っては、勢い余って勤王派と目されていた天童藩の陣屋にまで乗り込む始末。新庄藩は降伏を余儀なくされ、やはり勤王派の秋田藩も仙北郡ほか二郡を占領されて庄内藩の名を高からしめた。各大隊が無法な徴発や放火を厳に戒め、戦争犯罪など犯さなかったモラルの高さも注目に値する。

 かくて奥羽越列藩同盟が瓦解するまで、庄内藩はついに藩境内に敵が侵入することを許さなかった。このような士気の高さは和田東蔵がひろく集めた各隊からの報告書にもよくあらわれていて、たとえば八月十三日に秋田藩その他と接近戦となった二番大隊の奮戦ぶりは左のように記録された。
 「片桐貞助敵二人斎藤又次郎敵一人大屋作右衛門敵一人遠藤善蔵敵一人高橋是太敵一人村上元吉敵二人(注略)和田鉄蔵外三人ニテ敵一人打留佐々木久助同一人打留……」

 ほかに著者による生存者への聞き取りも混じっていて、本書を参照せずして庄内戊辰戦争を語ることは断じて不可能である。すでにその一部を引いた大山柏『戊辰役戦史』が庄内藩についての記述のほとんどすべてを本書に依拠しているといえば、本書の不朽の価値はほぼおわかりいただけるであろう。

 というのに本書は長く入手困難になっていて、私などは四半世紀以上前に都立中央図書館から借りた原本をコピーして利用してきた。この貴重な史料が堅牢美麗な造本で知られるマツノ書店から復刻されれば、著者もこの〈紙碑〉のなかにのみ名を残した人たちもさぞや喜ぶのではあるまいか。
 もってひろくお勧めするゆえんである。
(本書パンフレットより)


  時代の転換期の壮大な叙事詩
       幕末史研究家 西澤 朱実
 明治維新の過程で出来した奥羽戦争は、様々な思惑の下であれ列藩同盟へと結実した避戦≠求める奥羽の総意と、会津死謝≠ニする大総督府見解にとらわれ鎮撫の本質を見誤った奥羽鎮撫総督府との、大いなる齟齬の産物と言うことができるだろう。

 この戦いで会津藩とともに朝敵と名指しされた庄内藩だが、実際には奥鎮府の下向当時、未だ官位の剥奪もなく、朝廷から正式な追討令すら発せられていなかった。ある意味、会津以上の理不尽に対峙する形で庄内藩は戦争に突入し、支藩=松山藩も含めた文字通りの総力戦を展開しながら、奥羽で唯一官軍の領内進入を阻んだといわれる伝説的な戦績を史上に刻みつける。その常勝軍≠フ詳細な全記録が、今回マツノ書店から復刻される『戊辰庄内戦争録』である。 編著者の和田東蔵行信は新徴組取扱役として清川口・小鍋(小名部)口に従軍した藩士で、明治五年には藩命で戊辰当時の記録収集に携わった。のちそれら史料の散逸を惜しみ、また往事を伝える文献に誤認の多いことを嘆じて本書を著したという。明治二三年、古稀の春に筆を執り五年を費やした大作は、慶応四年四月の村山郡を巡る奥鎮府との衝突(清川戦争)から列藩同盟成立を経て九月の開城まで、越後・秋田等各方面での庄内軍の戦跡・戦果を網羅する。「ちたひもゝたひあゆミをはこひ問きハめ」た(序文)その内容は、戊辰従軍者の日記・手記の精読と執筆時の生存者や遺族への丹念な取材をもとに、小隊・半隊の動きから同行する従者の名まで洩らさず書き留め、透徹した戦記として今なお他の追随を許さない。同時に、当時を生きた庄内人ひとり一人のその時≠切り取るまなざしの深さを以て、本書を壮大な叙事詩としても編み上げる。

 そこには酒井玄蕃(吉之丞)が破軍星旗を翻して立ち、石原藤助が野を駈け、俣野市郎右衛門が天童討つべしと吼える。あるいは中村次郎兵衛が山と積まれた弾薬を前に「運べぬなら焼き払え」と豪語して本庄の町衆を震え上がらせ、秋田攻略を目前にした椿台では、一夜にして大地を埋め尽くした敵勢に坂部九兵衛と安藤定右衛門が絶句する。大本営の鶴岡には軍資金調達から農兵取り立てまで後方支援の一切を担う菅実秀が控え、全軍の四割以上を占める民兵も奥羽戦において特筆すべき士気の高さを見せ、「農兵カ気込斯迄」と称された五十嵐八右衛門ら立功者を輩出、さらに武器と調練は自前≠矜恃とする商兵たちが、七連発銃をも携えて藩境へ向かう――。

 この個性的で多様な人材が庄内の総力戦を支え、ボトムアップの柔軟な意志決定が鮮やかな進退を実現させたのだということを、本書は今日、そのページを開く者へと訴えかけているのである。彼らの戦いを可能たらしめたのは、実高二十万石以上ともいう豊かな土地柄に加え、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた日本一の豪商=本間外衛(光美)の富と人脈、商都酒田の経済力であり、このヒト・モノ・カネの循環が生み出す共同体意識の高さそのものに拠るところが大きかった。

 とはいえ庄内藩とて理想の一枚岩ではない。豪腕な菅への反発は奥羽開戦を迎えてなお根強く残り、一方の戦場では、誤解から受けた誹りを恥として自刃する者も出ていた。何より、慶応三年秋には、前藩主=忠発の襲封に遡る対立がもとで、藩内勤王派の大粛清(丁卯の大獄)が断行されているのである。が、そうした摩擦を少なからず孕みつつも「上下一致」で戊辰を戦い抜いた庄内藩は、戦後、いわゆる庄内解体論≠ゥら浮上した会津・磐城平への転封問題に対し、天保の移封阻止で培った農民運動と三十万両もの献金を行って旧領安堵を勝ち取り、松ヶ岡開墾等による士族授産を成し遂げた数少ない藩としても名を留めることになる。本書を手にする読者は、それら次世代の歴史を含め、国を賭ける≠ニは国を失う覚悟≠ナはなく、持てるすべての智恵と力を尽くして国を保つ≠アとなのだということを、敗れてなお時代に屈しなかった庄内藩から学ぶだろう。

 なお、敢えて本書の難点を示すと、句読点が付されていない本文がやや読みづらいことと、初出以外の人名が苗字を略されているため、慣れるまでページを前後させねばならない点が挙げられる。利便性の面からは、庄内全軍の移動と戦跡を一見できる地図や主な戦闘をまとめた日表、補注・人名索引などが必要と思われ、復刻直後ではあるが、これらを付したリニューアル版の作成が、次の課題として見えてくるのではないだろうか。

 また本書には記されないが、庄内藩が春日左衛門や沼間守一といった旧幕臣と個別に接触を持ち、その招聘を図る一方、のちに三烈士≠ニ讃えられた佐藤桃太郎(佐藤泰然の大甥)ら遊撃隊の負傷者を受け入れるなど、独自の動きを見せていたことにも注目すべきだろう。そうした動向とともに、奥羽戦争・戊辰戦争の全体像、その中での庄内戦の位置づけや意義を総合的にとらえるためにも、『復古記』や『仙台戊辰史』『荘内史料集 明治維新史料 幕末編』等との併読が求められるところである。

 今日、だだちゃ豆の爆発的ブームやレストラン「アル・ケッチァーノ」の成功、映画「おくりびと」のロケ地としても注目される庄内だが、時計の針を少し巻き戻し、本書を通じて、時代の大転換期を生き抜いた庄内人の原点にも想いを馳せていただければと思う次第である。
(本書パンフレットより)