最高最大の明治維新史 総合索引つき再復刻!
修訂 防長回天史 全13冊 (全12巻+総合索引)
 末松 謙澄
 マツノ書店 復刻版
   2009年刊行 A5判 並製(ソフトカバー) パンフレットPDF(内容見本あり)
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  著者 末松謙澄のこと
 末松謙澄は、安政二年(1855)、大庄屋・末松房澄の四男として生まれた。幼名を線松、のち謙澄と改め、青萍と号す。父・房澄は、郷土の治水事業、新田開発などに功績をあげている。
 慶応元年(一八六五)、十歳になった謙澄は、私塾水哉園に入門し、漢学、詩文などを学ぶ。明治四年、十七歳のとき、青雲の志を抱いて上京、師表学校(後の東京師範学校)に入学したが、まもなく退学。苦学生の彼はそのころ、土佐出身で政府高官の佐々木高行家の書生になり、また後に首相となった高橋是清を識り、待ち合わせの時間を利用して互いに漢文と英語を教えあい、また外国の新聞を翻訳して新聞社へ寄稿するような仕事もしていた。
 やがて東京日日新聞社(毎日新聞社の前身)へ入社。笹波萍二のペンネームで健筆を振るい、社長の福地源一郎に認められた。福地の紹介で伊藤博文の知遇を得て官界に入り、山県有朋に文才を認められて陸軍省へ出仕。西南戦争の際、西郷隆盛に降伏をすすめた山県の一文は、謙澄が草したといわれる。
 明治十一年(1878)、英国公使館付一等書記官見習の辞令を受け「事務の余暇を以て英仏歴史編纂方法の取調」を申しつけられ八年間英国へ留学した。
 世界で初めて英訳『源氏物語』を出版するという画期的な仕事をするなど、文章家としての才能をいかんなく発揮し、英国の学位を得てケンブリッジ大学を卒業。明治十九年帰国後、文学博士となる。
 明治二十二年、伊藤博文の次女・生子と結婚、翌年第一回衆議院議員選挙に福岡県から立候補し当選。第二次伊藤内閣の法制局長官、さらに逓信大臣、内務大臣に就任し、伊藤内閣の知恵袋といわれた。その後、枢密顧問官、子爵、学士院会員にも選ばれ、大正五年には法学博士の学位を得た。
 この間、政治家として繁忙のかたわら法学、文学、史学、美学、翻訳など多岐にわたっての著書は百五十編に及ぶが、とくに明治三十年、毛利家歴史編輯所総裁を委嘱された謙澄は、政務の余暇をあげて『防長回天史』の著述に心血を注いだ。
 大正九年十月五日、二十三年にわたってあふれる才能と全ての精魂を傾けてきた『防長回天史』の修訂を終えるや、本書の完成した姿を見ることなく、燃えつきるようにあの世へ旅立った。世に「悲劇の大著」と言われる所以である。
(マツノ書店復刻版第一巻、玉江彦太郎氏の解説より)


『防長回天史』巻別明細
第壱編 @毛利氏 519頁
第貳編 A嘉永〜安政年間(1848〜1859) 522頁
第参編上 B万延〜文久二年(1860〜1862) 528頁
第参編下 C文久三年(1863) 533頁
第四編上 D文久三〜元治元年(1863〜1864) 538頁
第四編下 E元治元年(1864) 542頁
第五編上 F慶応元年(1865) 545頁
第五編中 G慶応二年(1866) 549頁
第五編下 H慶応三年(1867) 553頁
第六編上 I明治元年(1868) 559頁
第六編中 J明治元年(1868) 562頁
第六編下 K明治二〜四年(1869〜1871) 566頁
L総合索引


 
『防長回天史』の再刊を喜ぶ
   奈良本 辰也
 明治維新は、わが国の歴史に於て、最も意味の深い大変事であった。それは、三百年もつづいた封建社会を新しい資本主義の社会に変えると同時に、植民地化が進んでいた当時のアジアの国々のなかで、只一つの独立国として残すという壮挙をも成し遂げたのである。
 だから、維新史を考えるということは、わが国の現在を語るについても、多くの教訓を得ることになる。しかし、その維新史をどこから切ってゆくかと間われるならば、わたくしは『防長回天史』十二巻を読むことをすすめる。
 回天史は、長州藩を中心にして書かれた幕末より明治の初年に至る時代の風雲を、しっかりとした史眼でとらえた素晴しい本だ。毛利家には、厖大な維新史の史料があり、それを解読しながら、その家史を編纂するということは、かなり以前から行われていたようだ。
 そのなかの一人に中原邦平氏のようなすぐれた歴史家もいた。しかし、この本は、中原氏のように長州藩の藩士によらないで、末松謙澄氏のような他国の士を中心にして出来あがっている。
 しかも、その下にあつめられたのは山路愛山・笹川臨風・堺枯川・黒田甲子郎・斉藤清太郎等、今聞いても、すぐにうなずける程の錚々たる人物達だった。史眼も文章も、第一級の文筆家であったと見てよい。末松が此本の編纂に携ったのは明治三十年だったが、その全部十二巻を完成して、世に問うことができたのは、大正九年六月のことだった。

 着手以来二十三年の歳月を過し、夜を日についでの大事業だった。末松は、自らが長州藩と戦って小倉の出身である身を此大事業に投じたのは、「史家の心血をそそぐに足る」と確信したからだと言っている。彼及びその助手の者達が全て他藩人であることを、史家の客観性を保証することにでもなると言っている。そしてあくまでも史料に基づいての叙述に全力をそそいだとも言っている。
 私は、今日まで、その全冊を幾度となく利用してきた。ために背表紙も禿げ落ち、綴じ系もばらばらになっている。「韋編三たび絶つ」である。復刊を待つことしきりである。 (前回復刻時のパンフレットより)



  『防長回天史』を読むということ
     作家 秋山 香乃
 数字というものは面白い。
 例えば、「江戸時代から今日まで、日本の人口増加は甚だしい」と書いたところで、漠然と「そうなのか」という感想を持つに過ぎないが、これをひとたび数字を添えて次のように書き換えるだけで、新鮮な驚きを読む人に与えることができる。「江戸時代から今日まで、ざっと一億人も人口が増えた」という具合に。
 だから数字が記してあればあるほど資料としては有難く、具体的にその物事をイメージしやすくなると言えるだろう。
『防長回天史』は、この数字が多用されており、他書では決して読みとることのできない事情が、浮き上がってくるのが嬉しい特徴の一つだ。
 長州の生んだ英雄高杉晋作を、数字で表すとどうなるか。例えば他書を参照に書き出せば、「晋作は、二百石取り大組の格式の高杉家の跡取りである」となる。これを本書を参考に書き足すと、「高杉家は、およそ上に七十人、下に五千人、同格五百七十人ばかりの位置づけ」となるのである。前者からだけでは見えてこない、高杉晋作の矜持がぐっと胸に迫る数字である。この男の言動をより深く理解するうえで、これは大きな助けとなるだろう。そして、『防長回天史』を紐解かねば、知ることの難しい数字でもあるのだ。
 数字の件はもちろん一例に過ぎない。本書は、頁を開かねば知ることのできない事柄が、他にも数多く記されている。「幕末の長州を語るのに『防長回天史』なくしては語れない」といわれる所以である。

 筆者末松謙澄はその書き出しで言う。
 「細事にして大局に要なきものも多く之を記載せるは此時期間に於ける防長二州の事実の全斑を網羅せんとしたるがためなり」と。
ここにある「網羅」という言葉こそ、まさしく本書をよく言い現わしていると言えるだろう。政治、事件、戦、外交はもちろんのこと、兵制、農業、教育、人事、改革、民生など――長州の歴史を記したもので、これほど多項目にわたって具体的且つ詳細に記されたものは他にない。
 例えば、人事は移動があるごとに、要路一覧として記録され、誰がどの時期どの役職に就いていたのか一目瞭然となっている。のみならず、実力主義の採用後、どの人物がなにを切っ掛けに登用され、どのように要路に就いて登っていくのか、あるいは逆にいかにして失脚し、その末路はどうであったかに至るまで、手に取るようにわかるのは、現在に照らし合わせても学ぶところが多く、本書の醍醐味の一つではあるまいか。

 ことに、一度は長州だけでなく日本をも動かす寸前までいった大物政治家長井雅楽の失脚していく様や、対馬問題に携わり、見事に解決して藩外に大きな後ろ盾を得た桂小五郎が、着々と地歩を固めて長井亡き後の長州を担っていく姿は、陰惨な政界の現実をも照らし出し、敗者勝者の明暗の残酷さに息を呑む。
 教育では、藩校明倫館や西洋学所などの学校で、何を学んでいたのか科目までも細かく確認でき、兵制では刻々と西洋化されていく操練や演習の様子だけでなく、実戦に耐えうる軍備が整えられていく様を見ることができる。そして、どの兵器がどの時期に採用され、あるいはどこから幾らで買われたかということさえ、わかる範囲で記載されているのだから、実に感嘆を禁じえない。本書によって、長州は安政年間にすでにゲベール銃を使って軍事演習を行っていたことが知れるのだ。

 西洋式軍艦への関心も、早い時期から同藩は高く、やはり安政年間にはプロジェクトチームが組まれ、製造と購入の両面からこつこつとした努力と準備が進められていく。それにもかかわらず、蒸気船の購入時期が遅れたのは、外貨の確保と石炭の安定補給の問題で躓いていたからなど、意外なことが足かせとなったことも、本書は教えてくれる。石炭補給の問題は、三代目奇兵隊隊長赤根武人の養父が、士籍を脱して石炭商人となり、急場を凌いだなど、実に興味深い話である。本書ではこういう藩士らの細事のエピソードも満載で、随所で楽しむことができるのだ。

 心にくいと思うのは、ここまで防長の歴史に詳らかでありながら、本書が防長二州のみにとどまらず、日本全般を見渡し、折々の時局の大勢をも記して長州と対比させてあることだ。一つの事象を、出来得る限り多くの立場から照らし出してあるため、読み手は多角的な視点と物の見方を知らず知らずのうちにさせられている。有難い配慮である。
 ところで長州は、文久三年五月十日米船ペムブローグ号に攘夷と称して砲を放ったのを皮切りに、国内外を敵に回して孤立する。その後、禁門の変、内訌戦、幕長戦、戊辰の役と、およそ七年の長きにわたり苦しい戦いを展開していくわけだが、その激切な戦闘の経緯を活写する末松の筆が、それまでとはあきらかに違う文調で生々しく滑り出し、ハッと目が覚めたような鮮やかな印象を読むものに抱かせる。『防長回天史』は、膨大なページを割いて克明に描かれた戦の場面が秀逸なのだ。

 本書が「事実を排列するを要旨とせり」と筆者が述べる通り、「行文中多くの原文書を挿入」することで「記録的歴史の性質」を高め、戦場ごとに日付を追う記述形式を取ることで客観的冷静な視点を失わぬ一方で、余分な修辞を排除した端的でリズミカルな文体が、かえって戦場の容赦のない緊迫した臨場感をよく伝えている。また、戦地図を随所に使い、それぞれの地形や位置関係を視覚的に明らかにさせてある心配りは、まさに痒いところに手が届く感だ。
 さらに瞠目するのは、桂小五郎らを中心とした長州藩上層部の外交だ。幕長戦においては、実戦前の薩摩藩や幕府との駆け引き、周囲の藩との折衝の様が、当時の問答が要約されずにそのまま開示されてあるため、互いの手のうちを今に知ることができる貴重な史料となっている。戦は始まる前の外交手腕が勝敗に大きく影響を及ぼすことが、用意周到な長州の動きで納得させられるのだ。

 本書は膨大な量もさることながら、いささか難解な原文書も含み、誰にでもやさしく読み解ける本とは言い難い。ただ、右記の如く、ここでしか見ることのできぬ史料を多く含む以上、一度は通読したい書のひとつではあるまいか。なにより、長州の歴史を知ることは、我が国の歴史を理解するうえで、ひいては今という世を見渡すうえで、不可欠に違いないのだから。
(本書パンフレットより)


  『防長回天史』の再刻を祝って
     歴史作家 桐野 作人
◇読者にやさしい本
 十数年前、『修訂防長回天史』上・下(柏書房、1967年復刻版)を古書で買った。それまで高価だったため、図書館で閲覧・複写して間に合わせていたが、仕事の必要に迫られて、やむなく購入したのである。仕事にはそれなりに役立ったが、往生したのは同版が縮刷版のため、活字が極端に小さかったことである。夜になると、目がチカチカして読むのにとても苦労した記憶がある。
 じつをいうと、その頃にはすでにマツノ書店の復刻版(1991年刊)が刊行されていたのだが、情報不足で知らずにいた。のちにマツノ版を入手してから、何と読みやすいのだと驚いた。
 マツノ版は著者末松謙澄の修訂再版(1921年刊)全十二冊を忠実に復刻したのみならず、新たに膨大な総合索引(田村哲夫氏編)が付いて全十三冊である。本書のような大著では、索引の有無が使い勝手に大いに影響する。索引がなければ、幕末長州藩の歴史の大筋をある程度理解していないととても使いこなせない。だから、従来の修訂再版は一般読者にとっては、とても敷居の高い本だった。それが総合索引のおかげで、ずっと読者にやさしくなった。マツノ書店の読者に対する気遣いを感じた次第である。故・田村哲夫氏の労作には敬意を表さずにはおられない。
 今回、このマツノ版が軽装版として再刊されるという。前回の復刻から十八年という歳月は読者層の世代交代を促しているはずで、潜在的な需要があるのではないかと推察される。また読者にとって、廉価版になったことも、さらにやさしい本になったといえよう。

◇「記録的歴史」の有難さ
 では、本書はどのような特色のある史書だろうか。著者末松謙澄は巻頭の「総緒言」のなかで、「本書ハ評論的歴史ヨリモ寧ロ記録的歴史ノ性質ヲ以テ著述セリ」と述べているように、「批評論断」をつとめて避け、「事実ヲ排列スル」ことを心がけたと述べている。後世の我々にとっては、世上の価値観や歴史観の変化に左右されないという意味で、非常に有難い叙述態度である。もともと本書の編纂は毛利家からの委嘱であり、その編纂責任者となった末松自身が長州閥の領袖・伊藤博文の女婿だから、本来、長州藩という維新の勝者の歴史を叙述するのが主たる目的だったことは論をまたない。
 しかし、同時に末松は第二次幕長戦争で長州と交戦した豊前小倉藩の出身である。本書が長州の歴史を綴りながら、かなりの客観性を保持しているのは、末松の出自によるところも大きいのではないか。
 本書がどの程度客観性を保持しているだろうか。その証左といえるのは引用史料の質量と多彩さである。総合索引には「書誌名索引」も付いている。それによれば、引用史料はじつに膨大で三九四点に上る。そのうち、八割以上が長州藩以外の史料である。本書が「記録的歴史」である以上、対立的もしくは中立的な藩外史料が圧倒的である事実がその客観性をおのずと担保しているといっても過言ではない。
 本書は基本的に編年体による史書だが、たとえば『大日本史料』に代表されるような綱文(事件や事柄についての長文タイトル)が付いた体裁ではない。章の初めに節見出しがまとめて付いているものの、頁も明示されていないので、節の区切りがわかりにくいのは事実である。しかし、それも綱文を立てることによって歴史をぶつ切りにできない、事象の連続としての歴史叙述にしたいという末松の思いが込められているのではないだろうか。

◇歴史の敗者へのまなざし
 内容面でいえば、個人的には歴史の敗者の描き方に関心がある。たとえば、長井雅楽、赤根武人、明治二年(1869)末から翌三年初めにかけての脱隊事件である。
 長井雅楽に関しては、「航海遠略策」に基づくその周旋活動は決して「私意僭越」ではないことを述べ、失脚したのも尊王攘夷運動の勢いに抗するあたわざるためであり、その「冤」を主張する者が藩内に少なくなかったことも付け加えており、同情的ですらある。
 一方、赤根武人については叙述がやや錯綜している。赤根がいわゆる「俗論党」に内通していたという伊藤博文の談話を載せ、さらにその脱走を「叛逆悖乱之重科」とする罪案を掲げているが、「赤根武人の蹉躓」と題した節見出しが掲げてあるも、それに相当する本文は見当たらない(第六巻)。単なる脱漏なのか、意図的な削除なのか不明である。いずれにしろ、この一件の評価の難しさを感じる。
 脱隊事件については、「賊軍」と規定して断罪しているが、たまたま西郷隆盛が視察のために馬関を訪れた一件を記しているのが興味深い。木戸孝允は西郷が調停策に出るのを恐れていたことを明らかにして、この一件の裏事情もわかる。
 最後にあえて瑕疵を挙げるとすれば、禁門の変の叙述が極端に少ないことである。幕末維新史に占めるこの事件の重大性にくらべて、「甲子七月十九日の変」はわずか二十数頁しかない。なぜ分量が少ないのか、その事情は容易に察せられるが、いかにも不十分で物足りない。
 とはいえ、その瑕疵を割り引いても、本書の価値を下げることにはならない。末松が抱いた「維新全史ト異ナラズ」(再版緒言)という意図は十分達せられていると思うからである。これほど重厚な史書が廉価版として再刻されることを心から喜びたい。
(本書パンフレットより)


  慶喜に突き付けられた『防長回天史』
     萩市特別学芸員 一坂太郎
 長州藩を中心とする幕末維新史の白眉ともいうべき『修訂防長回天史』全十二冊(大正十年、以下『防長回天史』とする)は戦後、四度も復刻されている(ただし三度は縮刷合冊)。さらにこのたびマツノ書店が原寸十二冊で、並製の廉価、普及版として五度目の復刻をするという。

 そこで私は、マツノ書店の松村久さんから推薦文執筆という大役を仰せつかったのだが、いただいた依頼状には「(販売先として)今回は県外のお客様、とくに東軍関係までを射程に入れています」と、あった。
 (いまさらなぜ?『防長回天史』)と思われる御仁がいるかも知れない。だが、山口県内に居座っていると、さほど珍しく感じられない『防長回天史』も、「防長」から一歩外に出ればなかなか見ることさえ難しい希書なのだ。だから松村さんは今回、県外在住の幕府側の研究者やファンにも、この名著を普及させたいとお考えのようである。

 では、幕府側からこの時代を眺めようとする読者に『防長回天史』を、具体的にどのように薦めればよいのだろうか。あれこれと考えていたところ、ずっと以前に見つけた面白いことを思い出した。
 『防長回天史』が勝者の幕末維新史の代表作なら、敗者である幕府側の代表作は『徳川慶喜公伝』だ。全八冊、大正七年(1918)の出版だから『防長回天史』とほぼ同時期に世に出たことになる。

 『防長回天史』は伊藤博文はじめ多くの関係者の談話を集めているが、『徳川慶喜公伝』の編纂スタッフもまた、明治四十年(一九〇七)七月から昔夢会なる座談会を開き、計二十五回にわたり慶喜本人から取材を行った。そのさいの筆記録は、伝記とは別に大正四年に二十五部限定で出版されたが、現在は『昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談』として東洋文庫(平凡社)に収められているので、容易に読むことが出来る。

 この、昔夢会におけるスタッフの質問の中に、『防長回天史』が登場するのだ。もっともここで掲げられた『防長回天史』は時期的に見て、最終的な(今回復刻される)修訂版ではなく、大正元年に出た最初の版である。
 『昔夢会筆記』には「毛利慶親父子と御書通ありしという事」の見出しのもと、次のようなことが記されている。
 元治元年(1864)三月二十二日、長州藩の使者が入京して、藩主父子の手紙を慶喜のもとに届けた。それには同年二月二十六日付で、「攘夷の国是を変ずることなく、三条元中納言以下正議の堂上(七卿ら)を復職せしめ、烈公(慶喜の父徳川斉昭)の遺志を継ぎて、国家のために力を尽されたき旨」が、述べられていた。前年八月十八日の政変により、過激な攘夷を断行した長州藩や三条実美ら七卿は失脚し、京都を追われていたのだ。長州藩は慶喜を自分たちの理解者と考えて頼ったのだろう。

 これに対し、禁裏守衛総督に任ぜられたばかりの慶喜はご丁寧にも、四月九日付で長州藩主父子に返事を書いたという。そこでは、「攘夷の儀につき深く尽力せられるること感激に堪えず。しかるに今日の形勢に至る。足下の心中察するに余りあり」と、長州藩の攘夷実行を称え、苦境については同情を示す。
 さらに慶喜は「さりながら、貴藩の進退いささか恭順の道を失わずして、勤王誠忠の実蹟いよいよ顕然たるにおいては、攘夷成功の道も自ら開くるに至らん。国家のため厚く勘弁し、台命に応じて速やかに使節を差し上せ、公命を仰がるべし」と、長州藩の復権を励まし、その方策を指示する。驚くべき内容の手紙なのだ。

 結局、この問題は同年七月十九日の「禁門の変」へとつながり、敗れた長州藩に朝敵の烙印が押されて、一応の決着がつけられた。それから半世紀の後、
 「『防長回天史』にその御返書なるものの全文を掲げおり候。真偽いかがに候や」
 と、編纂スタッフに問われた慶喜は、
「長州よりの使者の来りしこともなければ、さる返書を遣わしたることもなし。当時の形勢より考うるも、もとよりあるべきことにあらず」と返答した。そのため、この話題は残念ながら打ち切られてしまっている。

 慶喜のような立場にある者が、長州藩に期待を抱かせるような手紙を、こんな時期に書いたとすれば実に興味深い。それは慶喜本人でさえ、「当時の形勢より考うるも、あるべきことにあらず」と述べているほどだ。
 昔夢会における慶喜の回答を信じるのなら、『防長回天史』は出鱈目な史料を掲載したことになる。しかし本書はその後に出た修訂版からも、慶喜の返書は外していない。第五冊の309から310頁にかけて、全文が掲載されているのだ。

 結論だけ言えばこの場合、私は『防長回天史』の方を信じる。慶喜は自分の伝記の中に、長州藩主との手紙の往復を史実として残したくなかったのだろう。あまりにも軽率な行為だったと反省したのかもしれない。だから突き付けられた『防長回天史』に出ている自身の手紙を、拒否したのだろう。
 『徳川慶喜公伝』は、幕府という敗者側の歴史である。しかし敗者の歴史だからと言って、すべてが真実だとは限らない。敗者もまた人である。特に慶喜は、十五代徳川将軍という絶大な権力を一度は握った、プライドの高い男だ。それゆえに、残したくない史実も当然ある。だからこそ、「敵方」の『防長回天史』を合わせ鏡にして読む必要があると私は思う。とくに東軍関係の読者に、という今回のマツノ書店の狙いも、ここにあると言えよう。
(本書パンフレットより)




『防長回天史』再復刻を祝って
  幕末、長州が会津に怨念を持ってもおかしくなかった事情

     会津史談会顧問 畑 敬之助
 平成三年(1991)にマツノ書店から『防長回天史』(以下では本書)が復刻されると、私はすぐに全十三巻を購入した。そのわけは、すでに昭和四十七年(1967)以来、山ロ県萩市側から友好関係の申し出があるにもかかわらず、そのつど因循姑息に終始し、その因を暗に一部市民の怨念に帰する市当局の態度に割りきれないものを感じてきたし、さらにこの怨念論は、幕末、会津長州間に存在した固有の関係を戊辰戦争だけに限局し矮小化する一方的議論にみえたからだ。長州側の情報を求めたいと思っていた。

 私は昭和六年(1931)創立の「会津史談会」の会員。実は本書復刻当時、戊辰戦争で会津が長州からやられた!という見方にいささかうんざりしていた。たまたま本書復刻の四年後、当時新進気鋭の大阪経済大学の家近良樹助教授(現在は教授)が吉川弘文館から『幕末政治と討幕』なる画期的労作を発刊され、会津が幕末五年間、京都で一会桑(一橋・会津・桑名)勢力を形成してその軍事的中心となり、孝明天皇の寵愛をバックに、今度は攻守ところを変えて長州をいじめた時期があることを知った。会長間の私戦とまで言われたこの関係は足かけ五年。しかし通観すれば、明治維新招来の一大支流となったといってよい。

 会津と長州五年間の対立抗争は軍事と政治両面にわたった。たまたま慶応三年(1867)から翌年に至る最後の一年余は、会津側の形勢日に日に凋落し、慶応三年十月、十二月は政治的に、翌年は正月早々の鳥羽伏見戦以来軍事的に、会津側はいわゆる一方的に「やっつけられる」側にまわり、終には九月、城下の盟をさせられたのだった。会津側が今日怨念と称して友好関係を拒絶する理由は、この問に受けた戦闘行為以外での被害事実と、朝敵呼ばわりされて名誉感情を著しく毀損されたその後の経緯に基因するものである。

 ところで問題は、この一年余に先立つ四年間はどうだったのかにある。前掲・家近著の条理に本書第三、四編を重ねて読むと、他書にない風景が見えてきたではないか。
 実はこの期間は逆に、長州藩が会津藩にいじめられ、やっつけられた期間だったのだ。

 さて会津と長州の間には、文久三年1863)から慶応二年(1866)まで四年余の間に、少なくとも四つの戦いがあった。列挙すれば、文久政変(堺町門の変)、蛤御門の変(禁門の変)、第一次征長戦争、第二次征長戦争(四境戦争)である。
 ここで私が最も重視するのは、ただ一回、長州側が先手をとって攻め込んだ「蛤御門の変」と、その原因だ。なぜ長州軍は元治元年(1864)七月十九日早朝、京都で三方から御所目掛けて、会津藩だけを不倶戴天の敵として攻め込んだのか、ということである。
 実はこの原因の中に、この期間連鎖的に起こった四つの戦い、そして最終的に回天の業の着手につながる、長州藩の名分と戦略が秘められているからだ。

 どういうことであるのか。事は文久三年八月十八日早朝、「昧爽堺町門警備の長藩士飯田竹次郎らまさに入衛せんとす。薩兵これを拒み大声叱して曰く、勅詫ありと銃を以てこれに擬す。」 (本書第三編第四十三章)に始まった。長州藩の堺町門讐備が免じられたのだ。この突然の衝撃に京都の長州藩邸はどんでん返し。早速兵を御所内堺町門側の長州派公卿・鷹司関白邸に送り、そこに立てこもらせて抗戦姿勢をとった。これが文久政変である。
 幸い流血に至らず、長州軍は洛内大仏に退去し、憤懣の中、七卿を奉じて都落ちし、帰国するや反転して陳情・歎願に移った。だがそれも入京すら許されず、歎願書が天聴に達した形跡もなく、剰え「入京拒絶の説を執りたるは会藩なり」(前掲書)の絶望的情報で焦りは加熱、翌年六月五日の池田屋騒動を呼び、今度はそれが起爆剤になって藩士・浪士らが上京、七月十九日早朝の「禁門の変」となった。

 ところでこの二つの変自体のことはどの本にも明記されているが、間題はこの間の歎願運動の経過。これは戦闘ではない、平和的交渉だ。だから殺傷の痛みはない。反面、精神的苦痛は酷い。名誉を失った無念から、歎願不通の失望・焦りそして煩悶へ、やがて絶望へと、そのトータルはまさに切歯扼腕・臥薪嘗胆そのもの。ところが本書以外にほとんど記述がない。
 この長州藩の苦悩こそ、『防長回天史』第三編・第四編の叙述から推測できる心理風景である。これだけ具体かつ詳細な記録は他書にはない。会津の人々が以て読むべく考えるべく、おのが怨念という名の心事の根拠と比較すべき貴重な資料であろう。

 こういうわけで私は、大枚をはたいて『防長回天史』を購入した当初の目的を果たしたのである。
 本書を通読して余得も多かった。特に第一巻の「総緒言」「再版緒言」と、北大名誉教授・田中彰氏による巻末の「解説」計三十四頁がそれ。
 著者の執筆着手事情とその後の経過、編集方針、編集同人、毛利家及び地元史家との込み入った関係、さらに背景となる発行事情等々、いずれも、本書の内容をより一般化して多彩な部分に光を当てながら、事実を中心として、いかに幕末史全体を客観的に描写するかの工夫であることを知った。

 なお最近私は、ベストセラーの姜尚中著『悩む力』を読む機会を得た。その《帯》にたまたま、「悩んで、悩んで、突き抜けた!」の言葉を見つけ、それが、何か幕末会津藩にいじめられ悩んだ中からエネルギーを培った長州藩の姿に重なる思いがした。彼らはそのエネルギーをまず敗れはしたものの蛤御門の変で試み、次いで藩内改革にぶっつけて活路を開き、最後に明治維新に突き抜けさせたからである。

 私は今、幕末史で会津・長州関係を学ぶ時、総合的にはこの『防長回天史』を、戦史関係では大山柏著『戊辰役戦史 上下』に頼ることが多い。共に薩長関係者の著作だが、良いものに国境はない。会津にも、会津人が書いた『七年史』『京都守護職始末』『会津戊辰戦史』など、マツノ書店復刻の五名著がある。
(本書パンフレットより)