「坂の上の雲」の原型、76年ぶり初の復刻なる
秋山真之
 桜井真清/秋山真之会
  マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和8年
   2009年刊行 A5判 上製函入 500頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『秋山真之』 略目次
 幼少年編(松山時代)
・本日天気晴朗なれど浪高し・久敬翁と貞子刀自・兄と弟・母堂と将軍・少年戦術家・絵心・歌心

 青年編(東京時代・兵学校時代)
・厳しかった好古将軍・子規全集に現れた将軍・予備門時代の子規と将軍・兵学校入学の動機・兵学校時代・将軍の勉強・用兵作戦の天禀・ビスマルク崇拝・海軍野球の始祖・野球と褌論・殴られた話・殴った話・同郷会の蛮風・飲酒法の戦略

 壮年編(海軍将校時代)
・決死隊に加はる・威海衛の戦況・指揮官の作戦を批評す・郷里への消息・洗濯夫に化けて・廣瀬中佐との交遊・将軍の結婚・米西戦争と図上演習・米国留学時代の私信・星亨に一矢・天剣漫録・大学校教官時代・胸像の話・両雄の激論・桜下の飛瀑

 活躍編【上】(日露戦争時代総説)
・総帥と軍師・湖月組の活躍・連合艦隊参謀・出陣・大慈大悲・島村と秋山・先任参謀となる・兵器の考案・眠りを忘れる・肉眼と双眼鏡・真実把握の用意・痒きに手が届く・精根を尽す・佐藤と秋山

 活躍編【中】(黄海海戦、その他)
・作戦の苦心・駆逐隊夜襲・作戦の用意・苦難の黄海々戦・黄海々戦の意義・戦局の経路・苦戦に陥る・戦況転換す・旅順攻路と将軍

 活躍編【下】(日本海海戦)
・戦略上の最難点・所謂る七段構・将軍の偉勲・軍使秋山参謀・敵屍に祈る・将軍の手簡・千古の名句・天佑と神助・輝く報告文

 晩年編(軍務局長時代、その他)
・自筆の戦記・再び教官となる・新戦略の目標・大演習の明断・副長、艦長、参謀長・部下を労はる・艦内の諸改革・小村侯と将軍・シーメンス事件と軍務局長・晩年の大飛躍・世界大戦と将軍・巴里の密電・閑日月の一年・将軍病む・大往生・将軍と山下氏・葬儀、追悼会・銅像

 兵学編(所謂秋山流軍学)
・海軍兵学上の功績・兵術の三大別・海国戦略論・蛟龍飛騰の概・米西戦争と将軍・将軍の私見・兵理の会得「ブルーメ」と「マカロフ」・海賊戦法の研究・秋山軍学の基調・甲越軍学・白砂糖と黒砂糖・精神に重点を置く

 人物編(性行・思想・余技)
・建設的性格・ギャングを挫ぐ・友人の遺児を救ふ・修養の人・将軍の信念・荒療治・無造作の一面・林檎と放屁・将軍の貰ひ湯・厳父且つ慈父・青年指導・読書三昧・将軍と酒・人道主義・熱火の愛国心・宗教問題の誤解・人生的煩悶・病児を占ふ・秋山文学・名文の用意・絵と字・愛剣挿話

 追憶編(諸家の将軍観・回顧等)
・秋山将軍欧米視察旅行記(山梨勝之進)・国家多事の秋に秋山中将を憶ふ(松岡洋右)・正岡子規と秋山参謀(高浜虚子)・追憶片々(菊池謙二郎)・嗚呼秋山中将(河東碧梧桐)・稀世の名参謀(島村速雄) 


  『秋山真之』二人の編著者
    戦史研究家 長南政義
 一般に膾炙している秋山真之(1868〜1918、海軍中将)の人物像は、司馬遼太郎によるベストセラー長編小説『坂の上の雲』に負うところが大であろう。同書において描かれている秋山は、文字通り「鬼謀湧くが如し」といった感があり、日露戦役における日本海海戦の勝利には、彼の頭脳から迸り出た神謀籌策が大きく貢献しているかのような印象を受ける。
 我々がよく知る秋山のイメージが『坂の上の雲』により形成されたことを裏付けるかのように、秋山の伝記類が数多く出版されるようになったのは、戦後になって『坂の上の雲』の連載が開始された以降のことである。特に近年では、雑誌記事を含め秋山真之関連の評伝類が頻繁に出版される状況になった。

 そして司馬遼太郎が『坂の上の雲』に於て秋山の人間的風貌を生き生きと描き出すために引用した数多の挿話の典拠であり、『坂の上の雲』により高まった秋山真之人気を当て込んで出版された戦後の「秋山真之伝」の多くも種本として依拠しているのが、今回マツノ書店が復刻する、秋山真之会編『秋山真之』(秋山真之会、昭和八年)である。
 本書の背表紙には「秋山真之会編」とあるが、奥付には「著作兼発行者・桜井真清」となっており、本書が桜井を中心として執筆されたことが伺われる。桜井真清(1872〜1951、海軍少将)は、秋山と同じ伊予松山に生まれ、幼少時代に餓鬼大将であった秋山と遊びを共にし、秋山が海軍兵学校進学のために中退した松山中学校の後輩でもあり、秋山に憧憬を抱いて海軍兵学校を志望した人物である。さらに、歌詠みが盛んな伊予松山に育った秋山が、武士の嗜みとされた和歌を学ぶために十四歳頃より師事した歌人井出正雄は、桜井の叔父にあたる人物でもあるなど、桜井は本書の編者として最適の人物であり、本書に於いて「最も将軍に親炙した」人物と評されているのも頷ける。

 ところが本書には、桜井とは別の編著者も存在する。
 このたび本書と同時復刻される、秋山好古大将伝記刊行会編『秋山好古』(秋山好古大将伝記刊行会、昭和十一年)を水野広徳と共同で編纂した軍事史家の松下芳男(1892〜1983、陸軍中尉)は、その著書『水野広徳』(四州社、昭和二十五年)の中で、本書が「大体先生[水野広徳]の立案監修によって編著」されたと書いているのである。

 水野広徳(1875〜1954、海軍大佐)は、明治三十九年以降、軍令部戦史編纂部出仕として、日露戦争の海軍公式戦史である海軍軍令部編『明治三十七八年海戦史』全四巻(春陽堂、明治四十二年)の編纂に関与し、同書の日本海海戦に関する部分を担当した軍人で、その経験を基にして、桜井忠温『肉弾』(明治三十九年、英文新誌社)と並ぶ戦前の戦争文学の大ベストセラー小説、『此一戦』(博文館、明治四十四年)を執筆した人物であり、後に平和主義者に転向し反戦論を説いたことで名高い。

 水野は、伊予松山藩のお能方、水野光之の末子として呱呱の声を上げたが、幼少の頃に父母を亡くし、秋山と従姉弟の関係に当る伯父夫婦の家で育てられた。さらに、水野は、江田島の海軍兵学校から夏季休暇で帰郷中の秋山がお囲い池の水練場で泳ぐ姿を目撃しており、海軍中尉時代の水野に対して、「何でも良いから一つの科目を専心研究して其の途のオーソリチーにならなく」てはいけないと訓戒を与えたのも秋山であった。
 本書『秋山真之』は数ある軍人の伝記の中でも、極めて内容が充実した書となっているが、これは、本書が、桜井真清・水野広徳という秋山に親炙した最適の伝記執筆者二人に恵まれたことに基因するのであろう。

 このように編著者二人が秋山と同郷の後輩であり交流も深かった上、本書が秋山の謦咳に接した人物が生存中に編纂された本であるため、本書には編著者以外にも秋山と直接親交のあった人物からの談話が豊富に収録されており、彼等の語る回想のどれもが秋山の人物像を鮮彩に浮彫り出してくれる。本書を一読すれば、司馬遼太郎が、『坂の上の雲』に於て秋山の人間的風貌を活写するに際し利用した有名な挿話の多くを発見できるであろう。

 本書は、非売品であったため古書店でも殆ど流通しておらず、水野広徳が中心となって本書を一般読者向けに解り易く簡約化した、秋山真之会編『提督秋山真之』(岩波書店、昭和九年)ですら、たまに古書店の店頭で高価で販売されているのを散見する程度である。そのため、今回マツノ書店が本書を復刻する価値は大にあるといってよい。
 司馬が『坂の上の雲』で紹介した秋山のエピソードの多くは本書に拠る所が大であるが、同書が小説であるため、その引用に際しては、司馬遼太郎の取捨選択や彼の主観が混じっている嫌いがある上、引用文そのものも現代語訳であるために司馬による練達の筆を以てしても談話そのものの雰囲気や躍動感を十分に伝えきれていない憾みがある。ゆえに、今回の復刻を機会として、本書を繙かれて、談話者の「生の声」を聞いてみて、秋山真之の実像に迫って見られてはいかがだろうか。

 また、NHKが今年秋から三年に亘り秋山真之を主人公の一人とする『坂の上の雲』を放映することから、今後、新しく或は再度『坂の上の雲』を繙読若しくは再読される方が増えるように思われる。
『坂の雲の上』を繙かれる際には、本書を座右に置いて、司馬の書く秋山像と本書が描く真の秋山像とを照らし合わせてみるのも一興かと思う。
(本書パンフレットより)


名参謀『秋山真之』の復刻を祝う
 元軍事史学会副会長  作家 土門周平
『秋山真之』がマツノ書店から復刻・出版されると聞いて、とても驚き、そして喜んでいる。この本は、私にとって大切な一冊であるからだ。
 私が中学三年から四年になろうとしていたときだった、と記憶している。秋山真之の本が出たとの広告を新聞で見たので、在庫を確認するとすぐに神田神保町に向かった。家に着くのが待ちきれずに、神保町の通りを歩きながら読み、家に帰ってからも食事を忘れて読み耽ったのを覚えている。

 そもそも、その頃少年だった私たちの目には、陸軍よりも海軍のほうが「スマートで格好がいい」と映っていた。優秀な者は海軍を受験するのが当たり前という風潮だった。若者たちの「尊敬する人物」といえば軍人の名が上がるのは当然のことで、日露戦争時の作戦参謀であった秋山真之は、当時の海軍のスター的存在であった。

 ご多分に漏れず海軍兵学校を志望していた私にとっても、秋山真之の本が出たとなれば、読まずには置かれないという気持ちだった。軍人になれば、やはり参謀となって軍を指揮・統率するのが夢であり、当然の目標であったから、本書が少年の夢をかき立てたのは間違いない。分厚い本の頁をめくり終えた後、「オレが跡継ぎになってやろう」と思ったことを記憶している。

 ところが、四年生になって海軍を受験してみると、視力検査で落ちてしまった。そこで、陸軍士官学校に受験し直すことになった。当時、陸軍のほうが視力(裸眼)の合格基準が低かったからである。かくて陸軍士官学校を卒え騎兵科に所属した私は、「日本騎兵の父」と言われた兄の秋山好古が残したカリキュラムで訓練を受け、その戦術を学ぶことになるのだが、最初はやはり海軍志望だったのである。

 しかし、このとき読んだのは岩波発行のダイジェスト版『提督 秋山真之』である。後年、オリジナル版『秋山真之』を手にした際には、二倍のページ数とさらに充実した内容に、私は圧倒された。

 秋山真之についての伝記や評論は数多く出版されており、かく言う私も平成七年に『智謀の人|秋山真之』を上梓しているのだが、これは主として真之の戦略・戦術理論について検証を試みた著作であり、彼の人となりを伝えることに注力したものではない。その業績や人柄については、何と言っても今回復刻される伝記『秋山真之』が、最もよく伝えているのである。
 昨今、秋山兄弟の名が一般に広く知れ渡った功績は、言うまでもなく司馬遼太郎による長篇歴史小説『坂の上の雲』にあると思うが、この小説も伝記『秋山好古』『秋山真之』を参考にしていないとは考えにくい。
 類書が少ない段階で、これだけのボリュームと内容の書が出版されていたのであるから、後発の作家・研究者が参考にしないわけにはいかないのである。その上、本書は彼の業績や人となりについて、詳しくかつ分かりやすく記述しており、まさに秋山真之を研究する上での第一級の資料であって、これまで復刻されなかったのが不思議なくらいである。

 前述の拙著冒頭で、私はこのように述べている。秋山真之は、日本がその浮沈を賭けた日露戦争の海軍のために生まれてきた男である。日本の陸海軍を通じて、見識、実績、経歴、どの点をとってみても、参謀≠一人挙げよと言われれば、秋山を挙げることに反対する人はほとんど居ないのではあるまいか。

 太平洋戦争における日本海軍の、連合艦隊首席参謀の黒島亀人大佐は奇行の多い人であったが、よく、日露戦争の秋山を真似ている≠ニ言われた。司令長官山本五十六大将の信任厚く、山本長官の行なった作戦のほとんど全部をその頭脳からしぼり出した黒島が「マネ」と言われるほど、日露戦争のときの秋山の存在が大きいのである。
 秋山真之は作戦参謀として活躍し「名将」「知将」の名を欲しいままにし、天才とも呼ばれた人だが、名文家としても知られている。といっても小説やまとまった随筆が残されているわけではない。短い電報文や報告書の類であるにかかわらず名文とされるのだから、本当の名文家と言えるのではないか。
本書で触れられている書きためていたとされる自筆の戦記は、戦艦三笠とともに失われたとなっている。本当に書いていたのであれば、どんな名文で綴られていたのだろう、と残念でならない。また、山本英輔が秋山に名文の秘訣を聞く件などは、物書きの端くれとしてよく思い出し、手本としていたのである。

 莫大な制作費を投じたNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が、大河ドラマの別枠に本年から三年がかりで放映されると聞いている。また出版界には秋山兄弟ブームが起きるのかもしれないが、原点ともいえる本書が先駆けて復刻されることで、正しい秋山兄弟像が伝わることを願ってやまない。