平易な語り口で逸話を交えて述べるもう一つの「防長回天史」
訂正補修 忠正公勤王事績
 中原 邦平
 マツノ書店 復刻版 *原本は明治44年
   2008年刊行 A5判 上製函入 824頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
    ※ 価格・在庫状況につきましてはHPよりご確認ください。
マツノ書店ホームページへ



  もう一つの防長回天史  中原邦平『忠正公勤王事績』の成立事情
    作家 古川 薫
 中原邦平が家史編纂を目的に設けられた毛利家の「編輯所」に入ったのは明治二十一年(1888)である。彼は嘉永五年(1852)、山口県大島郡に生まれた。加藤有隣、さらに東沢潟について漢学を、また宣教師ニコライからロシア語をまなんだ。外国語学校を出て、参謀本部御用掛などをつとめ、ロシア語の翻訳にあたった。毛利家の編輯所にまねかれたのは、元勲井上馨の推挙であろうといわれている。

 末松謙澄(ノリズミ、普通ケンチョウと呼ぶ)が、毛利家から編輯所総裁を委嘱されたのは、明治三十年(1897)だった。謙澄を推したのは、元勲伊藤博文である。その人選について問題はあったが、ケンブリッジ大学に留学、近代史学に明るいこの人物をおいて他にもとむべくもなかったのだ。
 謙澄は伊藤博文の娘婿である。豊前小倉藩の出身ということで異論が出た。かつて長州藩に敵対した藩にゆかりのある者に毛利家の歴史を書かせるのかと、山口県内で反対の声が上がった。

 謙澄は総裁に就任すると、中原邦平一人をおいて、山口県人約二十人で構成されていた編輯所職員をすべて解任した。そして山路愛山ら当時中央で活躍していた文筆家四人を採用した。いずれも「他藩人」である。遅れて堺利彦も加わり、謙澄を中心に七人が編輯員となって執筆を開始した。七人といっても、中原邦平は実際の執筆陣から除外された。
 謙澄は藩主敬親の功績をたどる家史ではなく、長州藩史を編むという意気込みだった。ところが「維新の功績を誇示する毛利家史ではないか」と「社会新報」が『防長回天史』編纂の批判記事をかかげた。いわばそれを奇貨として、毛利家は内外から物議をかもす『防長回天史』の編纂を中止してしまった。
 謙澄はそれから自力で編著をつづけ、「未定稿」から初版本を経て『修訂防長回天史』十二巻が、自費により出版されたのは、大正十年(1921)だが、大著の完成を見ずに末松謙澄はその前年病死している。

 一方、防長史談会から、中原邦平著『訂正補修忠正公勤王事績』(忠正公は毛利敬親の法名)が刊行されたのは、明治四十四年五月であった。毛利家の『防長回天史』編纂中止が決まった一カ月前、それが出たということに、微妙な事情があらわれている。
 かいつまんで言うと、山口県人有志が、中原邦平を講師として、長州藩の維新史を聴く会をひらいた。それは前後二十一回にわたる長講で、本格的な取り組みであった。つまりは「他藩人」末松謙澄による『防長回天史』編纂と同時期、それに対抗するくわだてであったことは間違いない。
 その速記録はゆうに一冊となる分量で、ただちに『忠正公勤王事績』として出版のはこびとなる。邦平が「寺内(正毅)閣下が予の講話速記を活刷して同好の士に頒たれたり」と「再版趣旨」に書いているように、寺内陸軍大臣の発起で印刷されたのを、のち防長史談会が復刻、
『訂正補修忠正公勤王事績』として世に出した。

 その部数はわずかなものだったろう。昭和四十九年九月、防長史料出版社が限定五百部で復刻、直後に再版したが、なお入手を希望する人が絶えなかったのは、中原邦平による叙述の内容のユニークさによるのだろうと思われる。
 第一に約一千ページにまとめられたこの防長維新史が、通読できることである。原史料などを網羅した『防長回天史』十二巻となると、和漢混淆文を読み下すだけでも、一般人の寄りつけない資料性の高いものである。
 それにくらべると、『忠正公勤王事績』は講演の速記だから、口語文であり、明解で親しみやすい。エピソードもふんだんに紹介されている。
「それには刀が要るが、刀がないから、一つ下され、麻田はヨシやろうと言ふて、奥へ這入つたが、軅て一本の大刀を持出し、之をやらうと言ふて、抛り出した。高杉はそれを手に取つて見ると、金具に一三つの御紋が付てゐる(略)麻田はさうかと言ふて、手子を呼んで鑢を持つてこいと言いつけ、御紋のところをゴシゴシ削り消して―」
 京都で高杉晋作が将軍を殺すと騒いだときの話である。むろん『防長回天史』では見られない記述である。

 維新開始期とされる天保の改革から説き起こし、版籍奉還にいたる敬親の生涯を語る邦平の『忠正公勤王事績』は、まさに防長維新史そのものである。平易な語り口で歴史情況と、敬親を中心とするおびただしい登場人物を、逸話もまじえて述べる彼の維新史は、史料収集を担当したときから蓄えられた詳細な知識によって、史実はしっかり押さえられている。それが「もう一つの『防長回天史』」とされるのは、的確な評価というべきだろう。
(本書パンフレットより)

 幕末長州の一大絵巻
     作家 秋山 香乃
 忠正公とは、幕末の長州藩主・毛利敬親公のことだが、本書は公の事績というより、幕末の長州の軌跡であり、長州藩がこの動乱の大転換期に行われた政権交代の立役者である以上、一藩の範囲を超えて我が国の幕末史を活写している。一読した者は、思わず唸らずにはいられぬであろう。「これだけ複雑な歴史を、よくぞここまで簡潔にまとめ上げたものだ」と。

 幕末の歴史は難解だ。政治、思想、経済、外交 −それらは、藩、あるいは地位や身分といった各々の立場の数だけ百鬼夜行の如く入り乱れている。個々のイデオロギーも、急激に変わる社会情勢に振り回される形でふらふらと揺れ動く。あまつさえ、当時の人々の発する言葉、たとえば「攘夷」一つとっても、誰がいつ何を背景に発したかによって、その解釈は変わってくる。単純に夷狄を払うためだけの攘夷なのか、開国を未来に据えた攘夷なのか。

 文久三年、五月一日を日限に日本は攘夷に踏み切る旨の詔が下った。これは長州の「御周旋」が実った結果だ。蓋を開けてみれば、当日攘夷を決行したのは、長州ただ一藩。幕府を筆頭に他藩は冷たく静観した。
 無謀な攘夷を先駆けたかに見えた長州だが、しかし一方で同じ時期、藩士五名をひっそりと海外へ派遣していた。

 この辺の事情について『訂正補修忠正公勤王事績』はいう。
「他日必ず開国して、外国人と交際しなければならぬ結果になるのは極つて居るが、其時外国の事情を能く知った者が居らぬと、条約を結ぶに就ても、対等の条約を結ぶことは出来ぬ」から「洋行させよう」。
 長州藩士の多くは幕府が先の外交で見せた国辱を雪ぐために列強に立ち向かおうとしていたにもかかわらず、一部の指導者たちは、いずれは開国せざるをえぬ国際情勢を把握し、開国のための攘夷を考えていたというわけだ。二重構造の攘夷である。こういうところが幕末史、ことに主役級の長州藩がわかりにくい一因だが、一事が万事、この調子だ。

 ゆえに、幕末史を著わそうと思えば、自然、末松謙澄の『防長回天史』のように膨大な量の紙面を費やす以外なく、無理にまとめあげれば味気ない事実の列挙で終わるか、安易な図式化でお茶を濁すしかない。
 本書は、全二十一回という講話速記の形をとっただけに、適度な枚数の中に実にわかりやすくそれぞれの事件へ至る経緯を説得力ある見解で述べ、なによりもふんだんな史料を背景にたくさんの逸話を添えて生き生きと表現している。ここでは、村田清風、吉田松陰、周布政之助、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、寺島忠三郎、入江九一、時山直八等、お馴染みの長州藩士が活躍し、その情景はありありと瞼に浮かんでくる。息遣いさえ聞こえてきそうだ。

 ことに政戦に敗れた長井雅楽切腹の場面は秀逸で、鳥肌が立つほど生々しい。血の匂いが紙面から沸きたってくるのはもちろんのこと、滴り落ちる血液の濃度まで手に取るように伝わる描写もさることながら、長井当人の悲愴さとは裏腹に「久しく打絶えて、珍しいこと」となっていた切腹という行事に大騒ぎする周囲の慌ただしさが、実際はそんなものであったろうと、いっそうリアルに迫ってくる。

 本書で瞠目すべきは、冒頭に書かれた毛利家の特異性であろう。元和元(一六一五)年家康が出した「公武法制応勅十八箇条」によって、武家と朝廷の付き合いは激しく制限された。幕府側から要請しない限り諸侯は一切金品の贈与をしてはならない、入京も駄目、請願、婚姻、すべては幕府の監視下である。そのために武家伝奏という役職が設置され、大きな権限を有していた。ところが、長州だけは特段で、元就以来の慣例により、「歳末歳首の献上物を為すのみならず、江戸往来の途中京都へ這入ることが出来」たのである。しかもそれらは武家伝奏を経ずに行われる。毛利家はこの特例により、皇別の末裔である特別な家柄であることに格段の誇りを覚え、この自覚こそが幕末騒擾の大転換期に長州が主役足りえた原動力となっていることを本書は示唆している。

 この特異性ゆえに、安政五年に密勅が下り、朝廷工作において他藩に抜きんで、八・一八の政変による失脚ではもだえるような焦りを覚え、暴挙とどこかで知りつつ、止むに止まれぬ激情に駆りたてられて禁門の変に突き進んでいったのだ。禁門の変で長州が逆賊として孤立しなければ、その後の歴史は存在しない。

 長州の幕末史を著わした書の代表といえば、やはり『防長回天史』につきる。全十二巻の読み応えは格別だが、その前にまずは本書で防長史に親しむのも楽しい時間となるだろう。
(本書パンフレットより)