維新史解明の根本史料!
大久保利通日記 上下+人名索引
 日本史籍協会
 マツノ書店 復刻版
   2007年刊行 A5判 上製函入  パンフレットPDF(内容見本あり)
    ※ 価格・在庫状況につきましてはHPよりご確認ください。
マツノ書店ホームページへ



 本書復刻に際して
■本書は〈大久保家蔵版〉と同時に〈日本史籍協会版〉も刊行されましたが、後者の巻頭に掲載されている上記「例言」以外はすべて同一です。
■原本には〈大久保家蔵版〉を使用し、下巻末に『大久保利通文書』第九巻より「嘉永元年日記」を転載しました。
■小西家の承諾を得て、昭和四十四年復刻の東京大学出版会版にある小西四郎氏の「解題」を掲載しました。
■このたび新しく勝田政治氏による別冊「人名索引」を作成しました。

 
大久保利通日記 解題
     小西四郎
 大久保利通は周知のごとく、木戸孝允・西郷隆盛と共に、椎新の三大功臣といわれ、その明治維新に果した役割については誠に多大なものがあり、その伝記には「大久保利通伝」(勝田孫弥著、上・中・下巻三冊)をはじめとし、「大久保甲東先生」(徳富猪一郎著)以下、多くのものが刊行されている。この大久保の生涯を叙述する上で「大久保利通日記」が、最も重要な根本史料であることはいうまでもないが、この日記がどの程度残されているものであろうか。それは本書の目次によっても明かであるように、最も古い時期のものは嘉永元(1848)年であり、断続して明治十(1877)年にまで及んでいる。本書「大久保利通日記」は上・下二巻に分れているが上巻は、安政六年から明治元年に至る間の日記を、下巻は明治二年から明治十年の日記及び補遺として嘉永元年の日記を収めている。

 最も古い嘉永元年の日記が、下巻に補遺として収められたのは、元来この年の日記は、元版の「大久保利通日記」には収載されておらず、本叢書「大久保利通文書 第九巻」に収められていたからである。今、日記の複刻に当り、大久保利通文書から移したのであり、本来ならば上巻の冒頭に置くべきものであろうが、「大久保利通文書第九巻」にも『日記補遺』として巻末近くに収められているし、元版になかったものであるという事情から、下巻の末尾に附収したのである。

 では何故にもともと「大久保利通日記」の最初に置かるべきものが、このような形になったのであろうか。その点については、下巻五四一頁の前にある大久保利武の解説が詳しく述べている。要するに「大久保利通日記」の刊行される昭和二年のころには、まだ嘉永元年の日記は、十分に解読されていなかった為、昭和四年刊行の同文書第九巻に収められたのである。それを今回、日記は一括した方が研究者に便であると考えて、編成し直したという次第である。

 大久保利通は、天保元(1830)年八月薩摩国鹿児島城下、加治屋町に生れた。父は次右衛門利世、母は(皆吉氏)ふく子、利通の幼名は正袈娑、のち正助といい、一蔵と称し、諱は利済、のち利通と改め、甲東と号した。大久保家は、小姓組に属し薩摩藩の下級武士であり、父は嘉永二年「高崎崩れ」(いわゆる「お由羅騒動」)といわれる薩摩藩の内訌に関係し、鬼界島に遠流の身となっている。赦免されて鹿児島に帰ったのは安政二年二月のことであり、約五年の間配流の身となっていた。大久保利通も嘉永二年謹慎を命ぜられ、嘉永六年に至って赦免され、藩庁へ再出仕している。

 補遺として収めた嘉永元年の日記は、ちようど利通父子が謹慎を命ぜられた前年のものであり、利通は時に十九歳、藩庁に出仕し記録所に勤務中であり、一月には家譜書役編集を命ぜられている。嘉永元年の日記は、正月元日より二月十一日、六月朔日より同月晦日、十月朔日より同月晦日、十一月十日より同月晦日に至る間のものが残っている。このほかの年月のものもあったと推測されるがそれらは夙に散逸し、消滅してしまったと考えられる。この嘉永元年の日記から、青年時代の大久保がどのように成長していったかの一端をうかがうことができる。

 日記上巻の第一巻はついで安政六(1859)年十二月にはじまり、翌万延元年閏三月十九日まで書かれている。嘉永元年から安政六年に至る間、十年の歳月を経過し、大久保利通は三十歳の壮年となっていた。時代も急速に変転し、嘉永六年のペリー来航、翌安政元年の日米和親条約の締結を経て、安政五年には日米修好通商条約も結ばれ、ついで大老井伊直弼によって大獄が起され、安政六年には多くの志士たちが処刑されている。大久保は安政四年西郷と共に御徒目付に任命され、安政六年には藩内「精忠組」下士団の中心入物となっている。さらに万延元年閏三月に、大久保は勘定方小頭格に任ぜられ、藩政中枢の第一歩をふみ出した。このような、日本が、そして薩摩藩が、さらにまた大久保自身が、大きく動いている情勢がここに記されている。万延元年三月三日の桜田門外の変の報が、同月二十三日に鹿児島に達し、同藩関係者の有村雄助が帰藩したのちの慌しい藩内の動きなどもよくうかがえる。

 日記第二巻は、文久元年十二月朔日から同月十六日に至る間と、文久二年三月十六日から同年十月九日に至る間のものである。文久二年三月十六日、大久保は藩主生父島津久光に随従して鹿児島を発し、京都に向った。四月二十三日には「寺田屋事変」があり、さらに久光は江戸に赴き幕政改革を目指して行動し、再び京都を経て九月七日鹿児島に帰っている。この間の事情が、書きつづけられていて、尊王攘夷運動が次第にたかまっている時勢、それに対処する薩摩藩の動きや朝廷・幕府等の情勢なども知ることができる。

 日記第三巻は、文久三年九月十二日から同年十月八日に至る間と、慶応元(1865)年正月二十五日から閏五月二十二日に至る間のもの、さらに同年九月二十四日から十月十八日に至る間のものである。文久三年のものは、同年八月十八日の政変後、島津久光が時局収拾のため再度上京した際大久保はまた随従したが、この間の旅行日記を主としたもので、入京して四日後で日記は終っている。その後慶応元年正月まで、大久保が日記をつけなかったのかどうかは判然としないが、慶応元年正月から閏五月に至る間のものは、大久保が国事周旋のため鹿児島を出発し、京都で活躍し、ついで帰藩するまでの事情が記されている。また多くの和歌が収められていて、大久保研究に興味ある史料を提供している。慶応元年九月二十四日から、十月十八日に至る日記は、短いものであるが兵庫開港勅許問題を中心とする慌しい京都の動きの一面を示すものである。

 日記第四巻は慶応二年八月七日から翌年八月十五日に至る間の約一箇年間のものである。時に大久保は三十七歳となっており、西郷と共に薩摩藩の立役者として従横に活躍した。慶応二年正月既に薩摩・長州二藩提携の密約が結ばれ、幕府と薩・長二藩の対立は激しくなった。慶応三年に入って討幕運動は進展し、時勢は漸く急迫した。大久保の活躍ぶりは、この第四巻と、次の第五巻によって、詳細に知ることができる。

 第五巻は、慶応三年九月十五日から、明治元年十二月十日に至る間のものであり、いわば椎新史のクライマックスともいうべき時期である。慶応三年十月の募府の大政奉還及び討幕密勅の降下、十二月の王政復古の大号令発布をはじめ、翌明治元(一八六八)年の新政府の成立とその一箇年間の動向や、その間に処する大久保の動きなどが実によく記されている。まさに維新政治史研究史料の白眉ともいうべきものであろう。以上、補遺を除いて、本書の上巻の内容であるが、かなり切れ切れであること、そしてまた日記自体、その記事は比較的簡単なものであり、それだけに研究者にとっては十分満足できない恨みはあるが、それは望蜀ともいうべきであろうか。

 日記下巻は、目次に示されているように明治元年十二月十日から明治十年三月二日に至る間のもので、これが第六巻から第十巻の五巻に分れて収められている。明治二年以降、同十年に至る間のほとんどが書きつづられているが、大きく欠けているのは、明治五年一月四日から明治六年十月十四日に至る間である。この間大久保、岩倉全権大使に随従してアメリカ・ヨーロッパを巡歴している。その行程の間、多分毎日メモを記したものと推察できるが、残念乍らそれは残っていない。明治四年十一月十二日大久保らは横浜を出帆し、同六年五月二十六日横浜に帰っている。帰国してから十月十五日に至る間、約五箇月近くの日記も残っていないが、これも果して全く日記を書かなかったのか、或は散逸したのか、今日知ることができない。このほか部分的に日記を書いていない日もあるが、それは極く短い日時である。

 大久保は明治七年十一月内務省設置と共に参議兼内務卿となり、以降明治十一年五月に暗殺されるまで、いわゆる「大久保時代」が展開した。彼は明治政治家中の最傑出者として評価されているが、まさしく明治新政権は彼によって地固めがなされたといってもよい。その彼の日記は、明治前期研究にとって最も重要な史料であることはいうまでもなく、ここにこれを喋々する必要はない。ただ下巻の記述も、全体として比較的簡単であり、木戸孝允の日記などにくらべて内容的にやや単純なものである。大久保の個入の感想・意見などについて詳細に述べている所が少く、彼の毎日の行動を克明に記したものである。だからといってその史料的価値は、少しも害なわれるものではない。それにしても日記が明治十年三月に終り、彼が暗殺されるまでの一箇年余が欠けていることは誠に残念である。この間、大久保は西南戦争の処理や、戦後経営で極めて多忙であり、メモ程度のものさえ記す余裕がなかったのであろう。それは最後の日記帳が、相当余白を残していることによって推測できる。

 日記の原本は、明治二十二年の大久保家の火災のため、その大部分が焼失してしまった。現存しているものは、安政六年十一月から万延元年閏三月に至る間のもの、文久二年三月から同年十月に至る間のもの、慶応元年正月から同年閏五月に至る間のもの、慶応元年九月から同年十月に至る間のもの、慶応二年八月から同三年八月に至る間のもの、及ぴ明治八年十月から同十年三月に至る間のものである。このほか明治三年・同四年の、焼損した一部が残っていて、これらは現在もなお、大久保家に保管されている。
(本書パンフレットより)


    『大久保利通日記』復刻に想う 
         曾孫 大久保利泰
 古書店の書棚を眺め回しても探している本が思うように見付からない。そのような口惜しさを感じる方々のために手に入りにくい稀覯本の復刻を心掛け、再び光を与えている人がいる。
 マツノ書店の松村久氏がその人で、古書店を営むかたわら三十年ほど前から予約制とはいえ、長州の歴史書の復刻を手掛けている。最近では会津から薩摩にまで手を広げ、そのお蔭で大久保利通も加わった。マツノ版薩長連合プロジェクトとでも言おうか。
 復刻は原本刊行順とは異なるが、これまで次の通りとなっている。

  @平成十五年『大久保利通』(松原致遠編)原本明治四十五年刊
  A平成十六年『大久保利通伝』(上中下・勝田孫彌著)原本明治四十三〜四年刊
  B 〃  『甲東逸話』(勝田孫彌編)原本昭和三年刊
  C平成十七年『大久保利通文書』(全十巻)原本昭和二〜四年刊
  D平成十九年『大久保利通日記』(上下)原本昭和二年刊
 復刻本が出る都度、松村氏から「一文」をとご依頼を頂き、刊行された当時にまつわる余話をご紹介してきたが、今回も筆をとることになり何か無いかと考えを巡らせた。
 表紙を開けると扉の「大久保利通日記」という書が目に入る筈である。先の『大久保利通文書』は島津忠重公によるものだったが、このたびは元老西園寺公望公である。

 二公には祖父利武が二人の兄と共に揮毫をお願いしたと聞いている。日記の出版に至る経緯の詳細は「緒言」に書かれているのでここでは触れないが、原本には収められていない「大久保利通日記補遺」についてひとこと申し上げたい。
 この日記は嘉永元年のものであり、大正十年に発見されたのだが、整理・解読に時間がかかり昭和二年の日記刊行時には間に合わなかった。依ってやむなく『大久保利通文書』第九巻(昭和四年刊)に日記補遺として収められ、同書復刻の際もそのままであった。
 嘉永元年というと利通が十九歳の時であり、この日記は青年時代の利通を知る唯一の史料である。利通の研究には欠かすことの出来ないものであるから松村氏にお願いして日記の復刻に当たり下巻の巻末に加えて頂いた。
 『大久保利通文書』を購入された方にとっては二重になってしまうが、日記としてまとめることは歴史史料としても意義が大きいと思うのでご了承頂きたい。
 ちなみに、日記の原本は次の六冊が残っており、国立歴史民俗博物館に収められている。

  一、安政六年十二月〜万延元年閏三月十九日
  二、文久二年三月十六日〜十月九日
  三、元治二年(慶応元年)正月二十五日〜閏五月二十二日
  四、慶応元年九月二十四日〜十月十八日
  五、慶応二年八月七日〜三年八月十五日
  六、明治八年十月十六日〜十年三月二日

 その他に火災で焼失した断片を台帳に貼り和綴じにした一冊があり、何れも重要文化財に指定されている。



   『大久保利通日記』から見る明治維新
    国士舘大学文学部教授 勝田 政治
 明治維新を最も主体的に担った政治家大久保利通。この大久保の軌跡を追究する基本史料となるのが、日本史籍協会から刊行された昭和二年(1927)の『大久保利通日記』全二巻、および同年から昭和四年(1929)にかけての『大久保利通文書』全一〇巻である。後者は、平成一七年(2005)に既にマツノ書店から復刻されたが、このたび前者の『大久保利通日記』も同書店から復刻されることになった。大久保研究、ひいては明治維新史研究にとって大きな意義を持つものである。

 『大久保利通日記』は、大久保利通の遺族の精力的な編集活動の成果である。大久保家では、安政六年(1859)一二月から明治一〇年(1877)三月までの日記原本を保存していたが、明治二二年(1889)の火災でその半ばを焼失し、写本も散逸してしまった。そこで、大正七年(1918)に日記の整理を企画し、残存している原本以外、宮内省図書寮・文部省維新史料編纂事務局・島津家・岩倉家所蔵の写本を借り受け、厳密なる相互の比較対照・校合を行って原稿を作成した。原稿作成には、維新史料編纂官で『大久保利通伝』の著者勝田孫彌と同編纂官薄井福治が携わり、大久保利通の五〇周忌にあたる昭和二年(1927)に刊行した。また、大正一〇年(1921)に大久保利武(利通の三男)が「弘化五年正月改公用書付諸覚書」を発見し、その裏面に嘉永元年1848)の日記があることを確認した。難解な字体であるため解読に手間取り、昭和二年の『大久保利通日記』には間に合わず、昭和四年の『大久保利通文書』九の「補遺」に収録することになった(嘉永元年分はその後、昭和四四年(1969)に東大出版会から復刻された『大久保利通日記』二に収められた)。

 このように、日記の記述範囲(時期)は、嘉永元年および安政六年一二月から明治一〇年三月となる。その間欠けている時期もあるが、慶応三年(1867)から明治四年(1871)、および明治七・八年(1874・5)はほぼ毎日の記述となっている。前者の五年間は、王政復古による江戸幕府の倒壊から廃藩置県という明治維新の最も重要な時期であり、後者の二年間は大久保が主導する明治政権がスタートする時期である。

 大久保の日記は「比較的簡単であり、木戸孝允の日記などにくらべて内容的にやや単純なもの」(小西四郎『大久保利通日記』二「解題」)と評されているが、緊迫感あふれた迫力ある記述や自らの感懐を示す記述も少なからずある。また、何と言っても明治維新における最重要人物、大久保自身の証言集なのである。いくつかの事例を見ていこう。

 慶応三年九月、大久保は山口を訪ね、長州藩主父子以下首脳部に王政復古クーデター計画を次のように説明し、同藩の同意を得る。幕府が「公論を拒ミ私意」を「増長」していることから「遂ニ決策ニ及」ぶことにした。「今日ニ至り人事も至り尽し此上傍観座視する時は他日一層之害ヲ増し」て、「皇国」が倒れるおそれがあることから「不得止」実行するものである。薩摩一藩で皇居を封鎖するが、「一藩之微力」では困難なので長州藩の「御救応」をお願いする次第である。これは、「死して以テ尽し奉ル格護(覚悟)」である。さらに、クーデターの直前になって尻込みする公家の正親町三条実愛に対し、次のように言い放って同意させる。薩摩藩主自ら兵を率いて京都へ向かうのは、「王政復古之基本ヲ立」てるためであり、「是非断然之尽力に非されは成功難致平々之尽力を以御基本相立候事は不存寄候」。勅命に反する者は「掃蕩」する「決心」である。このような「一大機会と云ものは千載之一時」であるから、「朝廷」においても「非常之御尽力」がなければ「大ニ失望」する。そして、クーデター断行に向けて薩摩・尾張・越前藩兵が京都御所を封鎖した様子を、「我兵を以禁闕警衛之様未曾有之壮観見る者胆を失ふ」と記している。

 王政復古後、徳川慶喜の辞官納地問題から「今日ニ決セスンハ大事差迫る」と「熟慮」し「戦ニ決」して戊辰戦争に突入し、廃藩置県に対しては「篤と熟考今日ノマヽニシテ瓦解せんよりハ寧ロ大英断ニ出而瓦解いたしたらんニ如す」と決断する。西郷隆盛の朝鮮使節派遣論(征韓論)に対しては、閣議で「断然前議ヲ以主張」あるいは「断然不相変旨申上候」と反対論を主張し敗北するも、「他ニ挽回ノ策ナシトイヘトモ只一ノ秘策アリ」と宮廷工作によって西郷派遣を阻止する。そして、佐賀の乱を起こした江藤新平の主張を「曖昧実ニ笑止千万人物推而知ラレタリ」と切捨てる。台湾出兵問題による清国との交渉については、開戦となれば「人民ノ議論」は言うまでもなく、諸外国の「誹謗ヲ受意外ノ妨害ヲ蒙リ終ニ我独立ノ権理ヲ殺クニ至ルノ禍ヲ免サル虞ナシト謂フヘカラス然レハ和好ヲ以事ヲ纏ルハ使命ノ本分ナレハ断然独決」し、戦争回避の意図を貫いて決着させた。 ここに紹介した事例は、ごく一部分でしかない。『大久保利通日記』は研究者だけではなく一般の人々にとっても、明治維新の内実を理解するにあたって、多くの素材を含んでいる一級史料である。最後に、復刻にあたって新たに「人名索引」を付したことを添えておきたい。
(本書パンフレットより)


   大久保家に流れるもの
萩市特別学芸員 一坂 太郎
 立教大学名誉教授を務められた大久保利謙氏(故人)は、大久保利通の直系孫にあたる。ところが日本近代史の大家であるにもかかわらず、個人的にほとんど利通について語ることをせず、公私の別を厳然と分けておられた。その毅然とした態度には、「為政清明」をモットーとした利通の像が重なって見えた程だ。
 いまから二十年ほど前、私はある出版社の仕事で東京成城の大久保家を訪ね、利通曾孫の利泰氏(利謙氏ご子息)より大久保利通日記自筆原本を、拝見させていただいたことがある。それは、日本近代史そのものを掌中にしたような、貴重で贅沢な経験だった。

 日記は全部で七冊、サイズは手帳大から週刊誌大ほどまでさまざまだった。うち一冊は明治半ばに火災に遭って焼損しており、そのため台紙に貼られ、製本し直されていた。この痛々しい一冊が、なぜか最も印象に残っている。
 その後、神保町の古書店で日本史籍協会編『大久保利通日記』上下巻を見つけ、迷わず購入した。昭和二年に限定三百部出た革張りの初版本で、全部で一千ページほど。生麦事件や小御所会議などの大事件が当事者の目で生々しく記録されており、興味は尽きない。

 さらに、私を魅了したのは侯爵大久保利和・伯爵牧野伸顕・大久保利武という利通の息子たちによる「緒言」だった。そこには出版に至る経緯が、淡々とした筆致で説明されている。
 それによると『大久保利通日記』は、大久保家の七冊をそのまま活字にしたのではないようだ。安政六年から明治十年に至る日記はすべて大久保家に保存されていたが、明治二十二年の火災で「其半ハ烏有ニ帰シタ」そうだ。私が見た七冊は、かろうじて焼け残った部分だったのである。

 しかし、さすが維新の立役者の日記と言うべきだろう。没後十年ほどしか経ていないのに焼失前、すでに「太政官修史局ニ於テ原本ヨリ謄写シ編シテ十巻」が作られていた。だがこの写しも同局廃止後に散逸したため、息子たちは大正七年から日記の復元を始める。宮内省図書寮・維新史料編纂局・島津家編輯所・岩倉公爵家が所蔵する日記の写しを借り集め、数カ月をかけて「彼此対照、厳密ナル校合」を行ったのだ。こうした地道な作業を経て、利通五十年忌に出版されたのが『大久保利通日記』だったのである。

 利通は大変な子煩悩だった。明治四年、岩倉使節団に加わり洋行するさいは十二歳の利和と九歳の伸顕をアメリカ留学のため、連れて行ったほどだ。
 ところが息子たちは緒言の中で、そのような父との思い出は一切記さない。「先考(利通)ノ日記及文書カ其資料ト為リ、修史ニ多少貢献スルトコロヲ得ハ、不肖等一門トシテ最モ意義アル追悼記念ト為リ、本懐之ニ過キサルナリ」との思いをもって、しめくくられる。

 それは息子が亡父の遺稿集に寄せたとは到底思えぬほど、私情を一切排した、冷静で気品ある緒言だ。あくまで歴史史料として『大久保利通日記』を世に送ろうとした崇高な志が、はっきりと見える。それが研究者の利謙氏へも受け継がれた、大久保家のDNAなのだと、つくづく感じた。だからこそ出版八十年を経てなおその価値は不朽で、こうして復刻されるのであろう。
(本書パンフレットより)