復古記 全15冊
 東京帝国大学蔵版
 東京大学出版会 復刻/販売元 マツノ書店
   2007年刊行 A5判 上製函入 パンフレットPDF(内容見本あり)
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 『復古記』復刊によせて
      東京大学名誉教授 宮地正人
 幕末維新の変革が今日の我々までをも魅了しつづける理由は、当時三千万の日本人総てをまきこんだ国家的大変動だったとともに、一九世紀後半の世界資本主義に直面し包摂されていった日本人の、その巨大な圧力に対抗し、はね返す民族的力量そのものが、あらゆる側面と局面において厳しく試され、且つ鍛えられていった時期だったからでもあるだろう。

 この変革の中でも、慶応三(1867)年一〇月の大政奉還より明治二(1869)年正月の箱館戦争終結までの期間は、国家体制の転換も含め最も激動し、最も多数の日本人が全国のすみずみから政治に参加した時期であった。安定した地位が永遠に続くと夢想していた旗本・御家人は、幕府「御瓦解」により瞬時にその知行と居宅を喪失した。朝廷に帰順し朝臣になろうとする旗本達は朝臣化運動に狂奔する。新政府に従い戊辰戦争に参戦する諸藩は、長州諸隊をモデルとし、藩内門閥制を打破しつつ、徹底した軍政改革を並行して断行した。各地の豪農層は自装・自弁の草莽隊を自主的に結成し戦闘に参画する。他方、孝明天皇の信任は自らにあったことを確信する会津藩を核に、奥羽越の諸藩は、薩長二藩に擁されたとみなす新政府組織の追討軍に対し死力を尽して抗戦した。両軍の武器は最早旧式の火縄銃ではない。ミニエー銃・エンフィールド銃を始めとする各種新式の輸入ライフル銃であり、アームストロング砲となっている。そして権力の空白が発生するや各地に大規模な世直し一揆が勃発するのである。

 この総過程を広汎な諸史料に基き明らかにした編纂書が「復古記」二六八巻である。「復古記」本記(一五〇巻)では、慶応三年一〇月一四日徳川慶喜の大政奉還に始まり、同年一二月九日の王政復古クーデター、翌慶応四年正月征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王のもとでの迅速な西国平定、二月からの東征大総督有栖川宮熾仁親王指揮下の旧幕府追討諸軍の東進と四月の江戸開城、他方で進展する新政府体制の構築、七月明治天皇即位と九月の東京行幸等々、外国公使の京都御所参内や諸外国との条約締結交渉、浦上キリシタンの処分問題などをも含め、国政レヴェルの大転換の一部始終が詳細に取りあげられている。本記の最終日は明治元(1868)年一〇月二八日、即ち会津降伏の事後処理が完了し、使命を果した東征大総督熾仁親王が、賜った錦旗と節刀を東京行在所の明治天皇に奉還した日となっている。と同時に、この日には、新国家(「御国体」)を支える地方体制が府・藩・県からなる「三治一致」体制だと規定する藩治職制が出された日だとの綱文をも立てている。大政奉還に始まる新国家形成の完了を府藩県三治一致体制発足の日に求めた編纂者の炯眼には舌を巻かざるをえない。「復古外記」(一四八巻)では、本記の中に入れると叙述が錯綜する鳥羽伏見戦争から榎本武揚軍の降伏に終わる箱館戦争迄を本記と別建てにし、一一の各「戦記」に分け、一つ一つの戦闘経過、草莽隊・「御親兵」を含む両軍の戦闘参加集団の構成、死傷者数等々を、極めて克明に諸史料を編纂しつつ叙述しているのである。

 「復古記」全二九八巻が、昭和五(1930)〜六(1931)年にかけ内外書籍株式会社から全一五冊(内一冊は綱文集録と総索引)の浩瀚な活版印刷物となって出版されて以来、今日まで維新史研究者・地方史研究者・自治体史編集者を始めとする多くの関心ある人々の座右の書・必読文献として利用されてきたのには然るべき理由がある。明治六(一七八三)年の太政官正院歴史課以降、修史局・修史館・内閣臨時修史局・帝国大学臨時編年史編纂掛と、編纂部局を転々と移動しながら、一七年をかけて編纂された「復古記」は、当時太政官の力を以てしか集めることが不可能だった一二一二種に及ぶ諸史料を駆使して編纂されたからである。その基礎の一つは、全大名華族(奥羽越列藩同盟に参加した大名家も含む)から提出させた、大政奉還期から明治元年一〇月迄の「家記」と名づけられた各家・各藩の詳しい編纂記録である。と同時に「復古記」編纂のため、京都御所に保管されていた京都太政官時代の二万有余点の政府文書(「復古記」原史料)が、明治八(一八七五)年東京の修史局に廻送され、そこで内容別に整理された上で、「総裁局記」「内国事務局叢書」「弁事局叢書」「行政官叢書」等の名称で、「復古記」の随所に活用されているのである。僅かの従事者、財政の不如意さにも拘わらず、これだけの良質で膨大な諸史料を使用し、一七年という短期間で編纂を完了させたことは、史学史上の一偉業である。

 とはいっても、「復古記」があまりに大部なためか、これまでは利用者の大多数は自分に必要な箇所のみを使用しているに過ぎない。読み込んでいけば、到る処でじっくりと考えるに足る記述につきあたる筈である。

 第一冊慶応三年一二月二五日条の、江戸での薩邸焼打事件では、この事件を一二月三〇日、京都薩摩藩邸に最初に急報したのは、江戸詰重役大縄織江暗殺未遂事件をおこしたのち、薩邸にかくまわれ、焼打直前に薩摩藩士に邸外に脱出させられた秋田藩士激派の高瀬権平(平田延胤妹おすずの婿)と楠英三郎の二名だったことが記されている。江戸での薩摩藩と平田国学との関係に光が当てられるべきだろう。
 同じく第一冊慶応四年正月二七日条では、備前藩・芸州藩両藩に宛てられた同日付の「今般王政御一新に付即今の処山陽道取調の儀」云々との新政府達に関し、同一文言の正月一四日の達には年貢半減の文言が載っているが、それはどうなったのか、との「復古記」編纂者の質問に対し、「池田章政家記」作成者は、「御取消相成候旨御口達有之候」と回答したと注記されている。半減令撤回は文書ではなく、問い合わせへの口頭での回答でのみおこなわれたことが、ここで明らかとなる。赤報隊の悲劇はおこるべくしておきてしまったのである。

 第二冊二月三〇日条、参内途次の英国公使パークス襲撃事件では、北畠治房撰の襲撃犯三枝蓊履歴が載せられている。それによれば三枝は伴林光平の弟子、藤本鉄石には南画を習っており、当然文久三年八月の天誅組挙兵に参加した。だが、同月二五日の高取城攻撃に対しては、「ああ斯の如き無謀無算の行軍、なんぞ勝算を得んや」と憤慨して脱隊、慶応三年の鷲尾隆聚の高野山挙兵には、岩倉具視の腹心香川敬三の勧誘により参加して輜重方副長の重責を勤め、この二月に「御親兵」に編入された人物なのである。彼の師伴林の参加した天誅組の行為を「無謀無算」と見抜いた三枝が、五年後パークス襲撃犯の一人になっていること自体が、新政府の「開国和親」政策への急展回展が、それまでの国事活動家達に与えた衝撃の甚大さを問わず語りに物語っている。「時代遅れの攘夷家」とのレッテルを安易に貼りつけて事を済ますのではなく、この二月末時点での権力当局者集団も含めた諸階級・諸集団のきちんとした政治的・思想的位置づけの必要性が痛感される。

 例証は以上でとどめておこう。必要に迫られて関係箇所のみを調査するのではなく、分量に臆せず読み進めていくならば、我々の視野をひろげ、歴史と人間への理解を深めさせる史料と叙述に必ずや各所で逢著するだろう。それは一に、編纂諸史料の博捜さに起因しているのである。
 とともに、二万有余点の「復古記」原史料が、所蔵する東京大学史料編纂所で目下整理、公開の途次にある以上、今日では一五冊の『復古記』自体が、膨大な量の原史料接近への索引的機能を果たすこととなる。関連する原史料を併せ調査・研究する中で、関心が寄せられている種々の課題の幅と深みが増していく可能性があるのである。 

 王政復古クーデターに端を発し、一年有半の戦争を経過し成立した維新政権及びその相貌を一変させた全国の諸藩は、決して当初より廃藩置県を運命づけられた無意義な存在ではなかった。それは伝統を踏まえた在地的発展の一つの具体的なあらわれだったのであり、そこでの全国各地の活性化と種々の模索そのものが、逆に意想外の廃藩置県への権力衝動をも創出していったのである。
 地域よりの視座、底辺より総体を把握する姿勢から再度明治初年史を考えようとする者にとって、まず必要となるのが、この『復古記』である。出版事情の困難な中、全一五冊にも及ぶ大部の復刊を決意したマツノ書店に心からの敬意を表しつつ、この一文を草する所以である。
(本書パンフレットより)


『復古記』は読者を待っている
     作家 中村彰彦
 日本史において「復古」といえば幕末の慶応三年(1867)十二月九日に渙発された王政復古の大号令を意味する。だから『復古記』といえば、王政復古を可能にした同年十月十四日の大政奉還にはじまり、戊辰戦争の終結に至る幕末維新史の全容を詳述した史書、という意味にほかならない。

 その内容と意義については、佐々木克氏の簡潔な解説がある。
「原本は『復古記』百五十巻、『復古外記』百四十八巻。刊本は全十五冊、菊版、平均八七七頁、引用書千二百十二種。編年体綱文に続いて関連史料を収載、戊辰戦争研究のための最も重要な基礎史料である。明治五年(1872)十月、太政官正院に歴史課を設置し長松幹を主幹として編纂事業を開始、旧大名に対し、史料として、慶応三年(1867)十月以降戊辰戦争期の諸願書・履歴・達書・諸〇その他諸記録の編集・提出が命じられ、その後同課は太政官修史局・太政官修史館、内閣臨時修史局と改称されたが編纂は継続され、明治二十二年十二月に完成した。(略)官撰の史書であるから王政復古史観が基調となってはいるが、政府側朝敵側の史料ともに平均して収録しているのが特徴である。」(『国史大辞典』「ふっこき 復古記の項)。

 さて、上記の引用文からも知れるように『復古記』は正編である「復古記」と副編というべき「復古外記」とから成っており、編年体で叙述される前者の刊本は第八冊まで、後者は第十四冊までで第十五冊は綱文と総索引に充てられている。
 面白いのは、「復古記」と「復古外記」とがグラフにいうX軸とY軸の関係にあることだろう。たとえば「復古記」を追ってゆけば、ある藩が慶応四年十月以降、明治元年(1868)十月二十八日に東征大総督が解任されるまでの間にどのような動きを示したかを如実にたどることができる。

 しかし、戊辰戦争は明治二年五月に榎本武揚および旧幕脱走軍がたてこもっていた箱館五稜郭の陥落におわるのであり、このような戊辰戦争の進展については時間順ではなく、地域別に把握する必要がある。そこで別途に編纂されたのが「復古外記」。その内容は以下の通りである。
 第九冊は伏見戦記と東海道戦記@。第十冊は東海道戦記Aと房総戦記。第十一冊は東叡山戦記と東山道戦記、北陸戦記@。第十二冊は北陸戦記Aと奥羽戦記。第十三冊は白川口戦記、平潟口戦記、越後口戦記@。第十四冊は越後口戦記Aと蝦夷戦記。

 いわば「復古記」が日本史上最大の変革期の政治史であるのに対し、「復古外記」は戦史という観点からこの時代を総合的に俯瞰する。かくて『復古記』全体は、X軸とY軸とを併せ持った空前の編纂物として幕末維新史研究に寄与するところとなったのである。
 特に第十五冊に収録された総索引がまことに丹念に作られているのは、編者たちが誇りにしてよいことであろう。
 一、二例を挙げるとすれば、まず林忠崇(昌之助)の項が思い浮かぶ。林忠崇は上総請西一万石の藩主であったが、家臣団とともに脱藩、箱根の関を占拠して一時は新政府軍の東下を遮断するなどした脱藩大名として知る人ぞ知る存在である。その林忠崇の索引は「老臣ノ入京」「領地没収」「箱根占拠」(以上「復古記」)その他三十一項目(「復古外記」)にも及んでいて本文から当該ページを追ってゆくだけで、かれが戊辰戦史に刻んだ足跡をおおむね頭に入れることができる。

 さらに「復古外記」第十四冊、蝦夷戦記に収録された諸報告を読むと、蝦夷脱走軍の守る松前城や箱館湾に艦砲射撃を加えた新政府海軍は、「廻転繰打」をおこない、昼になると沖に出て昼食休憩をとったことがわかる。この時代の艦砲はまだ舷側砲が主力だから、軍艦が陸地を砲撃するにはその陸地に右舷をむけたり左舷をむけたりと「廻転」しながら、順次舷側砲を発射してゆかねばならなかったのである。

 話が私事に及んで恐縮だが、私は林忠崇については長編小説『遊撃隊始末』(文藝春秋、1993年)と史伝『脱藩大名の戊辰戦争』(中公新書、2000年)を、箱館湾開戦に参加した新政府海軍旗艦甲鉄については『軍艦「甲鉄」始末』(新人物往来社、2006年)を書いたことがある。その執筆中、私がつねに参照した史料こそ『復古記』全十五冊であった。
 その第十五冊に収録された「復古記総索引」は三段組で三百三十五頁に及んでおり、これまでだれも研究対象としたことのない人名や出来事も多数記載されている。そのなかには『復古記』にしか記されずにおわった例も少なくないはずだから、その人物や出来事は、この総索引を手掛りとして、自分にアプローチしてくれる読者の登場を今も静かに待ちつづけているといってよい。
 本書復刻版の刊行を機に、幕末維新史をより深く学ぼうとする人々があらわれることを期待せずにはいられない。
(本書パンフレットより)



『復古記』との出会い
     歴史作家 桐野作人
 はじめて『復古記』を手にとってみたのは、もう十数年前になろうか。相楽総三と赤報隊に関心があって調べていた頃である。その頃は史料の所在や見方もよくわからずに、国会図書館などで気づいたものを手当たり次第にひもといていた。
 『復古記』もそうして出会った一冊だった。じつをいうと、そのときの印象は決して芳しいものではなかった。

 相楽らが処刑された場面は、正確にいえば、『復古記』の本記(第一〜八冊)ではなく、別冊にあたる『復古外記』(『復古記』第十一冊)に収録されている。該当する慶応四年(1868)三月三日の綱文を掲げてみよう。
「是ヨリ先、相良武振ノ徒、先鋒嚮導隊ト称シ、沿道諸藩ヲ脅迫シ、良民ヲ却掠ス、小諸、上田、岩村田、安中四藩、兵ヲ発シテ、其党数人ヲ捕斬ス、是日、督府武振等ヲ捕ヘテ之ヲ誅シ、其余党ヲ罰ス」
 これを読んで、憤然とした覚えがある。まさに相楽らは「偽官軍」「無頼の徒」という扱いであり、草莽を排除して成立した官製の維新史観のありようをまざまざと見せつけられた思いがしたからである。そのためか、収録されている史料も冷静に読めなかったような記憶がある。

 しかし、その後、多少は史料の見方がわかるようになってくると、当時の自分には見えていなかった部分が少しは見えるようになってきた。
 相楽総三は昭和三年(1928)十一月に正五位を追贈され、六十年ぶりに名誉回復された。一方、『復古記』はその直後の同四年(1929)七月から同六年十月にかけて内外書籍から刊本が出版されている。名誉回復の直後ではあったが、その事実は当然ながら刊本には反映していない。反映させるだけの時間的猶予がなかったからである。『復古記』の編纂は明治五年(1872)から開始され、翌年に火災による焼失を経ながらも、編纂を再開して同十八年(一八八五)には本記、同二十二年(1889)には残りの外記の編纂が完了していた。刊本はこれを活字化したにすぎないのである。

 ところで、『復古記』における相楽総三らの処刑の場面には、東山道総督府や信州沿道の大名家の史料が多数引用されているが、そのなかに『赤報記』から相楽の書簡五点も収録されているのは意外なことではないだろうか。宮地正人氏によれば、『復古記』は太政官政府所蔵の史料と諸大名家に提出させた「家記」類という、二つの基本史料群から主に構成されているという(「『復古記』原史料の基礎的研究」、『東京大学史料編纂所報』二六号、一九九一年)。
 『赤報記』はそのどちらにも該当しないばかりか、おそらく赤報隊の生き残りの関係者の手に成り、相楽をはじめとする赤報隊士の雪冤を目的として叙述されもので、官製史書である『復古記』に収録されるには異色、異端の史料といわざるをえない。

 なぜ「偽官軍」として断罪された相楽の書簡が収録されたのだろうか。担当編纂官の意図が奈辺にあったのか、まことに興味深い。とくに二月二十六日付の宛所不明の相楽書簡は東山道総督府に属する薩摩藩関係者に宛てたものと推定される。赤報隊の分遣隊が碓氷峠の手前で襲撃された追分戦争で、相楽は交戦した小諸藩などを「賊兵」と呼んでいること、分遣隊が江戸方面から東山道を下ってきた伯家こと白川家(白川神道の伯王家)の一子、千代麿を庇護・警固していたこと、薩摩藩士とおぼしき竹内健介が同道して監軍をつとめていたと思われること(赤報隊が薩摩藩の統制下にあったこと)など、おのずと「偽官軍」説に反論する内容を含んでいる。

 担当編纂官は、公式の維新史観に従って「偽官軍」とする綱文を立てざるをえなかったものの、両論併記の立場から、相楽たちの言い分も盛り込むことで、その判断を後世に委ねたのかもしれないと推測することは的はずれだろうか。あるいは、担当編纂官にも非業の死を遂げた相楽たちに対する惻隠の情があったのではないのだろうか。ともかく、史官としての一片の良心が感じられるのである。

 このことと関連するかどうかわからないが、信州高島藩士で平田国学の徒だった飯田武郷が明治十年(一八七七)から数年間、『復古記』の編纂主体である太政官修史館(修史局の後身組織)に御用掛として出仕している事実がある。飯田は赤報隊と同時期に編成されて東山道を進んだ草莽隊の高松隊(公家の高松実村を奉じ、甲府で「偽勅使」とされて解散)に所属していた。また相楽とも同志的な関係にあった。相楽書簡が『復古記』に収録された陰に、相楽と似たような経験をして生き残った飯田のひそやかな努力があったのではないかと推測してみたくもなる。
 このように、『復古記』は官製史書という枠を超えて、一筋縄ではない懐の深さがあり、あだやおろそかにできない史料集であることに改めて気づかされたのである。

 『復古記』は維新の過渡期における政治史であるとともに、戊辰戦争史の根本史料をなしている。とくに『復古外記』第九〜十四冊は「伏見口戦記」(鳥羽伏見の戦い)から「蝦夷戦記」(箱館戦争)までを網羅した一大戦史である。決して薩長関係に偏らず、一部旧幕側の史料も含まれつつ、政府軍に参加した諸藩の史料が多数を占めており、明治政府側から見た網羅的な戊辰戦争史を構成しているのが大きな特徴である。また各戦記の末尾に、戦闘に参加した両軍の部隊数・総人員・死傷者数などが一覧表になっており、戦争の規模や悲惨な一面も伝えてくれる。

 個人的な関心でいえば、まず上野戦争(彰義隊)を叙述した「東叡山戦記」がある。戦闘に参加した諸藩の報告書や記録が大量に収録されているのはもちろんだが、「寛永寺記」をはじめとする寺側の史料を駆使して、公現親王(輪王寺宮)の動向を詳しく記しているのが興味深い。また箱館戦争の「蝦夷戦記」は陸海で展開された戦闘の過程を立体的に叙述しており、刻一刻と変化する戦況が眼前に現れてくるようだ。この迫真性は史料ならではの醍醐味である。

 『復古記』に収録された史料は優に二万点を超すという。大政奉還から箱館戦争終結までの一年半ほどの歴史を語るには充実しすぎているほどである。この濃密な史料と向き合っていると、時折、史料のほうから語りかけてくる瞬間があるような気がするから不思議である。
 今回、マツノ書店が『復古記』という、幕末維新史の未踏の最高峰に挑戦し、ついに登頂を成し遂げたことに敬意を表するとともに、より多くの人にその喜びが分かち合えたらと念じている。
(本書パンフレットより)