地元の碩学が模索した未開拓分野、初版以来63年初の復刻
吉田松陰 東北遊歴と其亡命考察
 諸根 樟一
 マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和19年共立出版社
   2007年刊行 A5判 上製函入 476頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『吉田松陰 東北遊歴と其亡命考察』  略目次
■ 自序(東北遊日記の日数、天侯、国別、藩邑、里程、宿宅)
■ 平戸遊学の帰途熊本に宮部鼎蔵と相識る

■ 江戸遊学間鼎蔵と相房海岸を巡視す

■ 東部学会の失望、東北遊歴願認可

■ 江幡五郎の参加と江戸送別の前後

■ 亡命に変じて水戸に至り二人の追踏と会同

■ 勿来故関阯を越え始めて陸奥に入る

■ 劇的報仇奔走中の邂逅、遊歴完了、帰江

■ 自首、帰国、屏居待罪、裁決(用孟第一回挙)

■ 東征日記の執筆、殉国者の絶対信念

■ 松陰の日記及紀伝
@松陰「東北遊日記」A松陰「東征日記」B宮部鼎蔵「東北旅行日記」

■ 諸文に見られたる江幡関係残篇
@ 五郎の東上日記 A書状、日記、詩文、墓碑銘抄録

■ 松陰、二十一回孟士命名動機と其殉国的精神表徴

■ 関係記事補遺
@ 諸書抜粋 A 東北に携帯の「雑録」抄

■ 追補
@ 東北遊日記の初版本に三種あり
A 松陰一行の植田宿泊は当時の本陣又は其下宿に定むべし



 『吉田松陰東北遊歴と其亡命考察』を推薦する

     京都大学名誉教授 前京都学園大学長 海原徹
 吉田松陰は、安政六(1859)年一〇月二七日、江戸伝馬町獄内の刑場で死んだが、このとき彼は、まだ数え年三〇歳の若者であった。このいかにも短い、ほとんど駆け足の生涯の間に、彼は驚くほど精力的に日本各地を旅している。藩外への旅は、嘉永三(1850)年秋の九州遊歴に始まり、嘉永七年三月、下田踏海の失敗による下獄まで、僅か五年間に計六回試みられている。なかんずく嘉永四年末から翌年四月まで、厳冬の風雪を冒して企てられた四カ月余に及ぶ東北旅行は、交通手段の著しく貧弱な江戸時代にしては、ほとんど信じ難いほどの快挙であるが、のみならず、この旅行は、過書(通行手形)を持たずに出発した脱藩行であり、帰国後その罪を問われて士籍削除となった。当然のことながら、藩校明倫館兵学教授の地位もこのとき失っている。吉田家断絶、浪人となることも一向に厭わない、封建時代のサムライ身分にとっては破天荒の行動に若い松陰を駆り立てたものは一体何か、東北旅行の目的や意義、あるいはその成果について、早くから多くの人びとが関心を持ち、さまざまな角度からその謎を解き明かそうとしてきた。

 本書もそうしたものの一つであり、東北遊歴を主要なテーマにしながら、松陰の旅日記をすべて網羅的に取り上げ、その足跡を忠実に辿る作業を通じて、なぜ彼がそのように旅に執着したのか、また彼は、そうした旅の繰り返しの中で一体何を見てとり、何を経験したのか。旅から彼が学んだもの、それが彼の人格形成にいかなる影響を及ぼし、その後の主張や行動にどのように反映されたのかを考えようとしたものである。

 先行研究の代表例は、昭和十六(1941)年八月刊の妻木忠太『吉田松陰の遊歴』であり、文献史料を検索しながら、可能なかぎり「松陰踏践の各地を精査し参照之為に現今の市町村名を附記した」という手法は、本書もまた踏襲しているが、前書との違いは、著者の諸根樟一が東北出身の郷土史家であり、自らが生まれ育ったこの地方に関する豊富な知識や情報を有していたという点である。「凡例」の冒頭でいうように、もともと本書は、東北への第一歩となったいわき市植田町に計画された記念碑建立とセットになったものであり、松陰ら一行が泊ったと推定される旧植田宿の本陣や側本陣中根一族について詳細に検証するなど、極めて興味深い論考が随所に見られる。勿来の関を越える前日に泊った磯原(北茨城市)の野口本分家の三軒について取り上げ、「日記」に登場する野口源七を玄主の誤記だとしたのも、家系図などを参照した説得力に富む指摘である。

 よく知られているように、東北旅行には、宮部鼎蔵と江楮五郎の二人の同行者がいた。池田屋事件で死んだ熊本藩士宮部は有名人であるが、亡兄の敵討を果たせないまま、維新後まで生き延びた江楮は、意図的に歴史の表舞台から抹殺され、行方不明者のような取り扱いを受けてきた。これに対し本書は「南部叢書」のような新史料を織り混ぜながら、彼を取り巻く交友関係をさまざまな角度から掘り起こし、その人物像を可能なかぎり明らかにしようとした。「諸文に見はれたる江楮関係残篇」中の「東上日記」のように、従前の研究書で部分的に紹介されたものを全文収録したものもあり、いずれも極めて史料的価植が高い。「全集一その他に収録されている日記、詩文、墓碑銘などを改めて再検証し、一つ一つに新しい解題や校注を付したのも大いに評価できる。ただ、著者自身は、江楮の後半生にあからさまな嫌悪感を示し、「不烈、不義なる者」「日蔭者の武士、似而非儒者」などと罵倒して止まない。草奔の志を終生捨てず、刑場の露と消えた松陰の生きざまと比較したもののようであるが、戦時下の思想界を吹き荒れた「敢然起て国事に身を投ぜんとする」「殉国運動」に松陰の死を重ね合わせたことは、おそらく間違いない。

 過去形となった右翼用語や「支那」のような差別的言辞が散見されるのも、時代情況のゆえであるが、これらは必ずしも本書の値打ちを減殺するものではない。そうではなく、本書が発掘した新史料は多種多様であり、またそれをべースにした独自の論考には、しばしば、心を動かされ耳を傾けるものが少なくない。用紙の供給がなく、僅か三〇〇部しか印刷されなかったため、完本を見る機会がほとんどないのも、本書の値打ちを押し上げるのに役立っている。いずれも、早くから本書の復刻が期待されていたゆえんである。

 なお、著者の諸根樟一は、明治二六(1893)年に福島県石城郡川部村(現いわき市川部町)に生まれた。古書店を経営する傍ら、福島県などの地方史研究家として知られ、『磐城文化史』『福島県政治史』上巻など多くの著作がある。
(本書パンフレットより)