「ならぬことはならぬ」日新館教育の根本史料
会津藩教育考
 小川 渉
  マツノ書店 復刻版 *原本は昭和6年 会津藩教育考発行会
   2007年刊行 A5判 上製函入 756頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
    ※ 価格・在庫状況につきましてはHPよりご確認ください。
マツノ書店ホームページへ



 緒 言

 会津藩は徳川幕府中世以来文教武道を以て天下に名ありき、是れ決して吾等の私言にあらず、文学博士三島中州翁の曰へることあり、会津藩は尚武を以て俗を成し、往時に鳴れりと、又曰く、余天保の初に生る、当時海内の文藩は、人必ず指を会津藩に屈せり(原漢文)と、会津藩教育の淵源は既に藩祖公時代に発し、歴代益々文武を奨励して、子弟を養成したる結果、幕府の年末天下騒擾に際しては、能く力を王事に尽し、且つ宗家の為には藩国を犠牲に供するを惜まず、特に白虎隊殉国の如き、婦人殉節の如き、壮烈極まる事蹟を世に残すに至れり、近来世道人心大に弛廃し、悪思想天下に蔓延するに当り、憂国の士にして会津藩の教育に注意を惹き、其の資料を求むる者少からず、而して此の要求に応ずる良書としては、故小川渉先生の編著に係る本書に勝るものあらず、先生は会津藩士にして、幼児藩校日新館に学び、才学優秀を以て選抜せられて江戸昌平黌に留学を命ぜられ、博識能文を以て名あり、維新の後奥州斗南に移住し、同志と青森新聞を興して其の社長に挙げられ、公論正義を以て一時縣下を風靡せり、先生夙に会津藩教育の沿革を記述するの志あり、是に於て筆硯多忙の余暇を以て稿を起し、其の間或は上京して旧藩公松平家に就き諸記録を渉猟し、或は諸家の筆記を閲し、或は故老朋友に質し、苦心惨澹、数年を経て脱稿せり、本書即ち是なり、実に本書は土津公治世以来会津教育の淵源、町講所の設立、日新館の興起、市村の教育、教育制度、重なる教令、及び教育に功ありし諸名士の略伝等を年代を追うて記述し、独り文教のみならず、武術の教養及び士道の奨励に至るまで、網羅詳録せるを以て、之を通読すれば、会津教育の沿革、真相及び戊辰壮烈事蹟の由て来る所を知るを得べし、是に由て吾等相謀り、小川家の承諾を得て之を発行し以て希望者の需に応ずることとせり。(略)
昭和六年十二月 会津藩教育考発行会



『会津藩教育考』 目次
第一巻
 日新館図 教令
第二巻
 学史 上
第三巻
学史下・素読所・講釈所・神道方並和学所・書学寮
第四巻
礼式方・数学並天文方・医学寮・雅学方・武講並土図場・弓術場・馬術場・刀術場・砲術場並大砲方・柔術場並居合術場・水練場・居寮・開版方
第五巻
 南北素読所・宅稽古場・江戸邸並猪苗代学校・市村学事・役員・学資収支・雑事
第六巻
 古人事歴第
七巻 別録
 参考年表・生駒直乾建議書・田中玄宰建議書・澤田名垂意見書・有功者略歴・老荘問答
付録
 ・起稿始末 (小川渉・著 野口信一・校訂)
 ・起稿始末「注」  野口信一



『会津藩教育考』の希少価値

     作家 中村彰彦
 江戸時代には幕府の創設した昌平坂学問所を官学といい、諸藩が藩士子弟の教育のためにひらいた学校を藩校、あるいは藩学と称した。
 笠井助治博士(元福井大学教授)の調査によれば、かつて存在した藩校の数は延べ二百九十五校である。(「近世藩校一覧表」、『近世藩校の綜合的研究』所収)

 ところでこれらの藩校のうちもつとも水準が高かったのは、会津藩校日新館と佐賀藩校弘道館だったという通説がある。まずはこの説の当否を、私なりに検討してみよう。
 おことわりしておくと、諸般の藩校を抜群の成績で卒業した者は、藩庁から昌平坂学問所への留学を許されることになっていた。だからこの官学が受け入れた留学生数を藩別に見てゆけば、藩校のレベルはおよその見当がつくのである。そこで鈴木三八男の労作『「昌平黌」物語』によって、弘化三年(1846)から慶応元年(1865)までの二十一年間に昌平坂学問所への留学生を多く輩出した藩のベスト3を書き出してみると、つぎのようになる。
 @佐賀藩三十五万七千石、四十人
 A仙台藩六十二万石および薩摩藩七十七万石、二十一人
 B会津藩二十三万石、十九人。
 藩士ないしその子弟の人口は、およそ藩の規模(石高)に比例する。それを考えれば、会津藩の留学生の割合は仙台藩や薩摩藩のそれをはるかに凌いでいたことになる。すなわち東の会津藩と西の佐賀藩は、やはり通説の通り、その学生たちの質の高さにおいて双壁をなしていたといってよいのである。

 それにしても会津藩領は内陸部にあって気候も厳しい地域なのに、会津藩はどうして優秀な学生たちを育成しつづけることができたのか。それを知りたい向きは、小川渉の畢生の大作『会津藩教育考』を読むに如くはない。会津藩の教育は日新館教育と呼ばれていたが、日新館教育の歴史から内容、藩校の運営方法、有功者略歴に至るその全貌は、今や希少価値のある本書にあまさず語り尽くされているからである。
 私事をいえば、私は処女長編『鬼官兵衛烈風録』から近作の『落花は枝に還らずとも会津藩士・秋月悌次郎』まで、ひたむきに生きた会津人の人生をたどる歴史小説を多く手掛けてきた。その執筆中、つねにひらくのは『会津藩教育考』にほかならなかった。主人公たちが日新館でなにを学び、なにを自身の骨肉としたのかを考えるにあたっては、日新館教育が学生たちに求めた知的レベルと倫理観とを頭に叩きこんでおかねばならなかったからである。
 さらにいえば、戦後教育は相も変わらず不動の立脚点を見出すに至っておらず、国際的な共通テストの結果を見ても日本の青少年の知的レベルは低下の一途をたどっている。毎日のように報じられる少年犯罪の多さと異様さには、声もない人々もさぞ多いことであろう。

 このような悪しき傾向を考えたとき、思い出されるのが「ならぬものはならぬものです」とした会津藩の幼児教育であり、これをもとによくシステム化されていた日新館教育である。藩祖保科正之の教えに従って風儀を尊び礼節を重んじた日新館にあっては、藩校は国家有用の人材を育成するところと明確に意識されていた。さればこそ学生たちは文武両道に励んだのであり、犯罪者予備軍や拝金主義者の生まれる余地などはあろうはずもなかった。

 近年、国の将来を案じる者たちが現代教育へのアンチ・テーゼとして日新館教育に言及するようになったのも、ようやく上記の事実に気がついたためかと思われる。その意味でも、このたびマツノ書店が『会津藩教育考』の復刻に踏み切ったことはまことに時宜を得た好判断として高く評価したい。
 もって本書を、江湖にひろくお薦めするゆえんである。
(本書パンフレットより)



 『会津藩教育考』復刻を祝して
     会津若松市立会津図書館館長 野口信一
 会津藩教育の萌芽は寛文四年(1664)に創設された稽古堂に始まる。民間の学校として建てられた稽古堂は、庶民のほか武士も共に学ぶ学校であった。初代藩主保科正之はこの誕生を喜び、免租地とするなど援助した。その後、幾多の変遷を経て享和元年(1801)日本有数の文武両道の藩校日新館の造営に繋がり、会津藩精神の涵養が図られたのである。本書はその文武に渡る会津藩教育の全貌を詳らかにしたものである。

 著者小川渉は天保十四年(1843)父常有が弓術師範であった関係で日新館内に生をうけ、そこで学び、そして教えた人である。渉は選ばれて江戸昌平黌にも遊学、慶応四年(1868)戊辰戦争では外国人から鉄砲弾薬の買入れ調達にあたった。敗戦後は新潟在住の蘭人カステルの家に潜居し英学を学び、広沢安任らと藩主松平容保父子の幽閉を解くべく、西郷隆盛やアーネスト・サトーらを訪ね奔走した。その後斗南藩立藩に伴い下北・斗南へ移住、辛酸をなめた。廃藩後は青森で役人生活の後、青森県最初の新聞「北斗」などで健筆を振るったが、七年間の記者生活中筆禍による投獄も度々あった。明治十九年八月長崎県尋常中学教諭、二十二年辞して故郷会津にもどり教育考の執筆に専念、三十二年再び青森に移った。文筆に秀で事実を追求する勝れた能力ある渉は、本書を著すのに最適な人であった。

 本文は教令、学史、素読所、講釈所、書学寮、礼式方、数学方・天文方、弓術場、刀術場、古人事歴、等々の他、別録として藩士の教育に関する建議・意見書等から成る。学史・寛政三年の項には採用こそ成らなかったが、儒者上田文長の当時では珍しい女子教育に関する先見的な意見書や文化三年の日新館における日本初の学校給食の詳細、また同じく日本最初のプール・水練水馬池での水泳訓練など興味を引く項も多い。

 戊辰戦争によって日新館は灰燼に帰し、資料は焼亡、散逸し、資料収集は並大抵のことではなかった。また執筆にあたっては実見の記憶のほか、古老、同僚に幾度も足を運び、文を往復して正確さを第一に心がけ、さらに出典まで明記している。

 教育考の原本は七巻からなる。会津若松市立会津図書館には小川家ご遺族などから寄贈を受けた自筆の稿本が二種伝えられる。一つは「会津藩教育考艸」ともう一つは後述の「起稿始末」を含めた最終原稿である。いずれも筆書きの端正な書体で記されるが、「始末」によると第二稿が成ったのが明治十六年十二月、さらに資料の渉猟、秋月胤永、南摩綱紀、広沢安任らの添削、推敲を重ね、十八年十一月に第三稿、その後も調査は進められ最終脱稿の年月は明治三十年代と推測される。「教育考艸」には秋月らの青字、赤字が入れられ、最終稿に比べ記述量に差があることが分かる。『会津藩教育考』は昭和六年会津藩教育考発行会により非売品として刊行されたが、渉は明治四十年六十五歳で亡くなっており、本の完成を見ることは無かった。その後、復刻版として昭和十六年井田書店、昭和五十三年東京大学出版会から出版されている。

 今回マツノ書店の英断により巻末に小川渉の手稿「起稿始末」を付することができた。もちろん初出であり、本書執筆の動機、資料収集の記録などが記され解題ともいえる文章になっている。明治十六年から二十年までに渡る函館から長崎まで資料探索収集の記録、旧藩士を訪ねての事実の確認の様子が記され、あくまで史実を追求する渉の姿が伺える。また中級藩士の系譜集である「御通系譜」が存在し、戊辰の戦火で焼失したことなど初めて明らかとなった事も記される。そしてその末尾には「古を慨し、今を嘆じ、暗涙滴々紙上に墜ち、涙痕を拭ふの邊あらざりき。この書の一名を涙痕艸と名く」と記し筆者畢生の作であったことが知れる。

 また本書刊行についてその緒言は言う。「近来、世道人心大いに弛廃し、悪思想天下に蔓延するに当り、憂国の士にして会津藩教育に注意を惹き、その資料を求むる者少なからず。この要求に応ずる良書にして本書に過ぎるものあらず」と。

 この頃同様、道徳観念が薄れ、武士道精神が再認識される昨今、古に学ぶことが必要である。「ならぬことはならぬ」に代表される幕末動乱期の会津藩、武士としての信念を一途に通した会津藩士の精神性、その教育の根源を知る上で欠くことの出来ない資料として広く本書を推薦する。
(本書パンフレットより)