訓註 吉田松陰詩歌集
 福本 義亮
 マツノ書店 復刻版 * 原本は「吉田松陰殉國詩歌集」(昭和12年)
   1990年刊行 A5判 上製函入 1089頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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吉田松陰詩歌読解辞典として
札幌学院大学教授・北海道大学名誉教授 田中彰
吉田松陰について知りたい、調べたい、研究したいというとき、われわれはすでにいくつかの『吉田松陰全集』をもっている。
だが、これらの『全集』を繙いたとき、はたと当惑するのは多数の詩歌の間題であろう。漢語による表現が多く、解釈に苦しむことが多いのである。

 もちろん松陰の著述・意見書やメモ、書翰などにも多くの漢語がちりばめられており、あるいは古典の引用があり、歴史上の人物が登場する。だが詩歌のぱあいは特に、凝縮され、感性を込めた言葉であるだけに、それをどう解釈するか、背後や周辺にひそむ状況をどう理解すればよいのか解らないことが多い。なにか手引きになるものはないかと、つい思いたくなる。
幸いこのたぴ、福本義亮著『訓註古田松陰詩歌集』がマツノ書店から復刻される。
 
 これは著者が長年の薀蓄を傾けて書き上げた力作で、まず『吉田松陰全集』元版からの漢詩の原文があり、次に「読み下し」「評釈」「余話」などが続く。人物も難解な語も、古典の説明も関係資科も、徴に入り細にわたり、懇切丁寧に解説されている。まさに本書は”古田松陰詩歌読解辞典”といっても過言ではない。

 本書の原本は『訓註吉田松陰殉国詩歌集』の書名で1937年(昭和12年)、誠文堂新光社から発行されたものである。著者の福本義亮氏は「殉国」という言葉を好んでいたようだ。すでに1933年刊行の『吉田松陰の殉国教育』(誠支堂新光社)にも「殉国」をうたっている。それを時局便乗というのは易しいが、おそらく著者にとっては、明治以降の天皇制教育によって醸し出された時代思潮の激流のなかで、吉田松陰や松門の人々に没入すればするほど、みずからの精魂込めた著述に、「殉国」という当時の雰囲気を象徴するような語を付したかったのであろう。

 かつて私は、古書目録で本書を見付けはしたものの、「殉国」の語を付した書名から敬遠した記憶がある。しかし、その後入手しようとしても、本書はすでに稀観本に属していた。

 今回の復刻で、松陰の詩歌はいま一度身近なものになるだろう。本書を手にしながら改めて『吉田松陰全集』を繙きたいものである。


吟遊詩人・吉田松陰の全詩業
   作家 古川 薫
 吉田松陰が詠み遣した漢詩のうち、およそ七分の一は旅先でつくられている。初旅となった『西遊日記』の胃頭に、「心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり(略)発動の機は周遊の益なり」と書かれている。「発動の機」を求めるのが松陰における旅の哲学で、日本列島を駆けめぐる長い旅程こそが変転する青春の姿だった。

 そしてまた獄窓に書きとめられた持稿にも著き詩人の塊の告白を見ることができる。まさに志士とは詩士であり、憂国の吟遊詩人たる松陰像が躍如としてそこにある。

 福本義亮著『訓註吉田松陰詩歌集』には、約650篇にのぼる松陰の漢詩が網羅されている。これらの松陰詩は松陰全集でも触れることができるにしても、読み下しはともかく、一々の作品についてのくわしい注釈までは付されていないので、初学者の私らにとっては、何か手のとどかない無念を感ずることがしばしぱであった。

 たとえぱ私が好きな松陰の詩は、『東北遊日記』におさめられている七言律詩「三月五日」などである。数年前、青森に旅行したとき、龍飛崎灯台のそばに建てられた松陰詩碑に刻まれているそれを見てきた。この作品の「誰追飛将青史名」という結句の「飛将」の意味を漢然と解していた私は、「源義経の八艘飛ぴより来れるもの、而して義経は幼時此の地方に養はれ又晩年此地方に至れるの事実を思ひ合はせられたるものか」という福本義亮氏の訓註を読むことによって、龍飛崎の断崖から津軽海峡のかなたに横たわる「蝦夷」を望んで「長鯨を叱せん」とした松陰の雄渾な詩情に、より深い感動を味わうことができたのである。

 初版が刊行ざれた1937年の時代背景が反映ざれているとしても取捨の目を据えていれば、さして邪魔になるものではない。いずれにしても、読み下し、評釈、出典、成立事情など松陰詩をこれはど懇切詳細に訓注したものは、他に例を見ないだろう。これは持人としての松陰の側面を量質ともに厚くとらえた労作であり、松陰の全詩業をまとめた一千頁を超える大著だ。愛蔵の書に加えるべく復刻を待っていた稀覯本である。