『防長回天史』と対決する東北側から見た戊辰戦の定本
仙台戊辰史 付・仙台藩戊辰殉難小史
 藤原 相之助
 マツノ書店 復刻版 *原本は明治44年
   2005年刊行 A5判 上製函入1194頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『仙台戊辰史』 略目次
序 論
 伊達氏ノ三大特色

戊辰前記
 幕末ノニ大政党 政変ノ直接原因 戊辰前ノ仙台 仙台藩ノ職制組織概要 藩政ト藩論ノ大要 芝多党ノ運動ト其没落 鎖攘党ノ主張ト運動開 国党ト藩論 

戊辰記
 討幕仕末ト仙台藩 大政返上ト仙台藩論 討会奉勅仕末 三好ノ上京ト其結果 建白仕末ト世子ノ入国 再度ノ遣使 正月以來藩議ノ大要 正月以來ノ局面 奥羽諸藩ノ形勢 総督入国以來ノ形勢 薩人ノ仙台弾劾 討会軍ノ組織 対荘内ノ関係 討会軍ノ出陣 鎭撫使ノ転陣 出陣行軍ト本宮 敵状探索ノ仕末 建白一件ノ結果 諸兵出陣後ノ仙台 副総督ノ転陣 会津ヘノ使節 醍醐及世良ノ出働 慶邦公ノ桑折出張ト朝旨 上国ノ形勢 北越ノ形勢 会津ノ防備 会津へ討入ル 土湯戦争ト勤降使 異論者ノ捕縛 土湯山中ノ談判 嶽湯ロノ討入 出征中ノ事故ト形勢 経済ト軍事行政 九條総督ノ行動 会庄ノ同盟ト米沢 国論大二沸騰ス 会津ノ降伏申出 関宿二於ル談判 中山ロノ戦争 石莚ロノ戦争 御霊枢ロノ戦争ト談判 休戦二関スル異論及賞罰 世子ノ入国会津ノ嘆願ト鎮撫使 列藩ノ意見ヲ求ム 米沢藩主ノ周旋 列藩ノ同盟成ル 嘆願ノ趣旨 両藩主ト総督府 降服嘆願書ヲ郁ク 討会軍ノ督責 世良殺毅ノ議 醍醐及世良ノ行動 形勢一変(其経過) 羽州応援ト南部藩 農民降起ト世良解諭 世良修蔵ヲ殺ス 総督府ノ内情 白河城ヲ乗取ル 醍醐少将ノ行動 総督ノ帰仙 仙台藩主ノ帰城 九條醍醐両卿ノ間柄 薩長余党ノ殺戮 奥羽越同盟ト建白書起草 建白書ノ奉呈 軍事方面ノ活動 会津軍ノ力戦 白河ロノ激戦 戦後両軍ノ形勢 奥羽越公議所成ル 熊本藩論ト細川家ノ使者 佐賀小倉両藩兵 前山清一郎ト総督府 総督府ノ転陣 副総督ト荘内天童 秋田藩ト荘内 盛岡藩ト総督府ノ一行 弘前藩ノ挙動 総督府秋田二入ル 副総督府ノ転陣 秋田藩ノ行動 秋田藩論ノ内情 仙台ノ使節ヲ殺害ス 白川口方面 斥候ノ衝突 白河城総攻撃 仙台ト列藩公議 府奥羽越ト諸外国 白河ロノ激戦(六月) 幕臣トノ関係 輪王寺法親王御下向 棚倉方面ノ危急 出陣中ノ異論 盤城方面ノ戦闘 軍事多端棚倉落城 泉湯長屋ノ落城 白河方面ノ失策 藩主名代ノ出陣 白河口再度ノ大敗 三春ノ反盟 平ノ落城 二本松モ落城ス 会津ノ憤恙 平落城後ノ戦況 相馬藩ノ反盟 領外撤兵ノ仕末 四囲ノ形勢ト藩内外ノ事故 本道ロノ戦況及び事故 相馬方面戦況 荘内方面初度ノ戦争 新荘ヲ破ル 秋田国境二討入ル 角間川ノ戦争 六郷附近ノ戦ヒ 玉川以南ニ敵ナシ 秋田藩ノ防備 神宮寺攻撃 戦線十余里二一旦ル 角館附近ノ激戦 南部藩ノ討入 西軍ノ窮追 秋田口濱通ノ戦況 仙北方面ノ活動 長浜方面ノ激戦 境ノ激戦 刈和野ノ激戦 同盟軍ノ撤退 桂太郎ト西郷従道 南部藩北秋二討入ル 越後口ノ戦闘 徳川氏海軍ノ脱走 会津籠城ノ顧末 大鳥圭介仙台二入ル 若松ノ開城 米沢ノ降伏仕末 会津ノ降伏仕末 仙台藩内ノ事情 主戦論者ノ活動 降伏ト両党ノ軋轢 殿中ノ大激論 石母田但馬ノ使命 相馬口降伏仕末 白河口降伏仕末 旧幕臣トノ交渉 旧幕臣ト外国関係 額兵隊ノ出陣 降伏後ノ処置 西兵ノ乱暴 輪王寺ノ宮御謝罪 四條総督ノ入仙 両党剋殺ノ顧末 旧幕臣ト額兵隊 輪王寺ノ宮御帰京 西軍ノ虐威ト事故 公及ヒ世子ノ上京 捌封処分ノ内情 継嗣及後見内情 鎭撫総督以下帰京 水戸脱藩者ノ処置 藩邸ト其処分 奥羽諸侯ノ断罪 

戊辰後記
 新封ト藩政 版籍奉還ノ次第 主謀者ノ処刑 再度ノ脱走 鎮撫使下向ノ顧末 其後ノ処罰 議事局ト行賞 

北海道戦争
 五稜廓ヲ略取ス 松前ヲ攻撃ス 額兵隊ノ法令 職司ト規則 再度ノ歎願書 官軍ノ進発 鍬ヶ崎沖ノ激戦 江刺及福山ノ陥落 木古内ロノ戦 見国隊ノ到着 海戦ト二俣口合戦 大川七重ノ戦ヒ 函館戦争 勧降使來ル 瓦解総降伏 戊辰事変ノ総論
■正誤表
■著者の原本書き込みメモ


附・仙台藩戊辰殉難小史(杉沼修一 大正6年 115頁 非売品)



 『防長回天史』の対局に存在した正義
   萩市特別学芸員 一坂 太郎
 敗者や弱者は、声を大にして自分たちの歴史をどこかに刻みつけておかなければならない。さもなければ、勝者が編む正史の上では悪役や敵役にまわされてしまう運命にある。
 かの太平洋戦争末期。アメリカ軍が上陸し、一般住民をも巻き込んで凄惨きわまりない戦闘が繰り広げられた沖縄では、郷土史に対する関心がひときわ高い。各市町村史はもちろん、小さな集落の歴史までもが大抵は編纂刊行されていると聞く。ともかく出版点数のケタがひとつ多い。
 沖縄県の文化財の九割が、この戦争で失われた。古文書類も大方が灰塵に帰した。だからこそ、自分たちの歴史を消すまいと懸命になった。自分たちの歴史は、自分たちの手で残さねばならないということを、沖縄の人々は数百年にわたる数々の悲惨な体験から、身をもって知っているのだろう。
 山口県も、歴史に対する関心が高いとされる。これもまた、毛利氏が関ヶ原合戦で徳川家康に敗れた体験と深くかかわっている、と私は見る。敗戦により毛利氏の領土は、中国八力国より周防・長門のニカ国に大幅に縮小された。以後、二百数十年にわたる徳川政権下において、家康に弓を引いた石田三成は悪役であり、毛利氏もその系譜につらなるとされた。しかし敗者には、敗者の言い分がある。正義があり、誇りがある。江戸時代の毛利氏が歴史編纂にひときわ熱心だったのは、それらが消されてしまうという恐怖心と、なんとか伝えねばならないという強い意志からだ。
 藩士たちの家の古文書を集めた『萩藩閥閲録』、文化財調査書『防長古器考』等々、長州藩毛利家で編まれ、現在では山口県文書館「毛利家文庫」に架蔵されている史料集の数々は、敗者ゆえの産物かも知れないのだ。

 永々と前置きを書いたが、このたび支持多数を得て復刻される藤原相之助『仙台戊辰史』もまた、敗者の歴史書である。奥羽列藩同盟の盟主となり、新政府軍に敵対して賊軍となった、仙台藩雪冤の書だ。最初、新聞連載として世に出、明治四十四年に単行本になった。少年時代の著者藤原は、祖父から戊辰戦争について、こんな話を聞かされた。「その原因も、結果も、いと複雑なり、一朝夕の談にあらず、また其の当時事の与りし人々の忠好邪正、其の主張の是非曲直も、容易に弁じ難し、いま世のさま変りゆくを見るに、憖(なまじい)にこの事を知り却りて悪からむ、汝長じて後、仔細に研究せよ」なんだか現代の世界情勢にも当てはまるようで、ゾッとするのは私だけだろうか。後年、新聞記者となった藤原は諸所で史料を集め、古老の話を聞き本書を書き上げた。その記述は、史料から真実を拾い上げようとする真塾な姿勢に貫かれている。そして最後には、戊辰戦争という歴史を通じ、東北人の反省点をも探ろうとする。決して敗者の「恨み節」だけにまみれた歴史書ではない。それは藤原が、仙台人ではなかったからかも知れない。

 この『仙台戊辰史』に反駁したのは、勝者の歴史書である末松謙澄『修訂防長回天史』だ。大正十年(1921)、全十二冊で出版された同書は、公爵毛利家が集めた史料を中心に編まれた長州藩の維新史だ。ただし『防長回天史』は栄光を美化することなく、冷静に見つめ、叙述したとされ評価が高い。そのため、末松の毛利家内での立場が悪くなったという話も知られる。彼は伊藤博文の娘婿ではあったが長州人ではない。北九州の出身だ。この点、藤原と似ていると言えなくもない。
 にもかかわらず、『防長回天史』第十巻で百四十四頁にもわたり展開される「東北人謬見考」「東北人謬見考論評答弁」は、異常な熱気を帯びていて驚かされる。ここでは具体的には触れないが、『仙台戊反史』をたびたび俎上に上げ、敗者である「東北人」に対し激しく反論する。世良修蔵の密書の真贋については、筆跡写真まで掲げて論じる。
 末松をここまで熱くさせたものは、一体何なのか。勝者ゆえのさまざまな制約もあったろうが、私はある意味で末松の、あるいは『防長回天史』の限界を見る思いがする。
 なお藤原は、世良事件を中心とするさらなる反論を著すが、それが『奥羽戊辰戦争と仙台藩』の題で柏書房から出版されるのは、昭和五十六年になってであった(平成二十一年 マツノ書店 復刻)。超大国の正義が世界を動かす今日だからこそ、『防長回天史』の対極に存在した正義にも目を配り、考える癖をつけたいものだ。
(本書パンフレットより)



 『仙台戊辰史』推薦の辞
    作 家 中村彰彦

 いったんふたつの勢力が武力衝突すれば、戦いの帰趨によって一方が勝者となり、他方が敗者の屈辱に塗れざるを得なくなるのはいうまでもない。
 慶応四年(1868)一月三日に幕を切って落とした鳥羽伏見の戦いに始まり、明治二年(1869)五月十八日の箱館五稜郭開城におわる戊辰戦争において、勝者となったのは薩摩・長州両藩を主力とした新政府軍(西軍)、敗者たることを余儀なくされたのは「賊徒首魁」と名指された会津藩、およびその会津藩への同情から仙台・米沢両藩を盟主として結成された奥羽越列藩同盟参加諸藩(東軍)であった。
 おのずと明治の新体制は西軍有力者たちとこれに錦旗を与えた朝廷・公卿たちによって運営されることになったため、東軍参加者とその子孫たちは長く賊徒の汚名に苦しむ運命に甘んじた。このような傾向は歴史書にも反映され、たとえば維新史料編纂会編修『維新史』(1940)は実に高水準な史書ではあるものの、勝者に厚く敗者に薄いという弊を免れてはいなかった。維新史料編纂会は明治四十四年(1911)に文部省の内に事務所を置いて設立された団体だったから、順逆史観戊辰戦争とは正義の軍が逆賊を討った戦いだったとする無邪気すぎる見解を払拭できなかったのである。
 ところで司馬遷は、その著作『史記』の「伯夷(はくい)伝」に自身の歴史に対する感慨として、「天道是か非か」と書きつけた。この表現は、次のような意味合いで用いられている。「天は善人に福を与え、悪人に禍を下すというが、実際には善人が苦しみ悪人が楽をすることがあって、はたして天が必ず正しいかどうかわからないということ」(『故事・俗信ことわざ辞典』)
 東軍参加者ないしその子孫たちが戊辰の敗戦を「天道是か非か」と嘆じたことは、すでにマツノ書店が復刻刊行した『会津戊辰戦史』、『京都守護職始末』を精読した方ならすぐにおわかりいただけるであろう。
 藤原相之助の問題作『仙台戊辰史」にも、このような歴史観が通奏低音として全編に流れている。のみならず本書は四百字詰め原稿用紙に換算して千二百枚になんなんとする大部なものであり「今日なお(仙台藩)戊辰史の定本として高い評価を得ている」(河北新報社刊『宮城県百科辞典』)。幕末維新関係史料をほぼ網羅した日本史籍協会叢書(続)に、仙台藩関係の史書としては唯一本書が収められたのも、決してゆえなしとしないのである。

 本書は「序論」を別とすれば「戊辰前記」「戊辰記」「戊辰後記」「北海道戦争」の四章から成っているので、以下しばらくその特徴に触れよう。
 まず「戊辰前記」の章では、幕府が開国政策を採って以降、仙台藩内部が「鎖撰党」と「開国党」に分裂し、互いに激しく争った次第が解説される。一門十一人、一家十七人のうち一万石以上の知行地を持つ者が七人もいた仙台藩伊達家はその分だけ藩主の求心力が弱く、伊達騒動に象徴されるように派閥抗争が宿痾となっていたのである。
 ついで「戊辰記」では、慶応四年三月十八日に奥羽鎮撫総督九条道孝、副総督沢為量、参謀醍醐忠敬、下参謀二名大山格之助(のち綱良、薩摩藩士)、世良修蔵(長州藩士)らが仙台藩領に入り、会津討ち入りを督促したことからついに仙台藩が東軍として立ち、奥羽戊辰戦争が終結するまでの過程が詳述される。
 特に名高いのは世良修蔵の騎慢と性的乱脈ぶりを描くのにかなりの筆が費され、著者自身も筆誅を加える意思をあらわにしていることであろう。この点は長州藩寄りの立場をとる史家の間で物議を醸し、末松謙澄に至っては労作『防長回天史」に「東北人謬見考」なる百ぺージもの付録を添えて本書を批判している。
 幸い『防長回天史』もつとにマッノ書店から復刻されているので、この問題に関心のあるむきには同書と本書の記述を比較検討することをお勧めしたい。
 ただひとつだけコメントしておきたいのは、今日の山口県萩市立明倫小学校の校庭に建つ旧長州藩校明倫館の遺跡「重建明倫館碑」の碑文のうち、読み下せば「幕命を崇奉して国家の藩屏たる所えん以なり」となる「幕命而」の部分が削られてしまっていることだ(小著『捜魂記−藩学の志を訪ねて』参照)。幕末の明倫館学生たちがかくまで幕府を憎んだことと、仙台藩士たちが世良の高圧的な態度を憎悪したことはともに真実なのである。
 なお本書においては、烏組を率いた隊長細谷十太夫、額兵隊を結成して奮戦した星拘太郎らの行動とともに博徒や偽公卿の動向も語られ、単に仙台藩上層部から見た戊辰史ではなく重層的な記述になっていることを高く評価したい。

 さらに「戊辰後記」「北海道戦争」の章へと読みすすめれば、仙台藩が降伏したあとも脱走者が相次ぎ、どこまでもまとまらなかった内情があきらかにされる。著者が「北海道戦争」の章を立てねばならなかったのも、星拘太郎らが箱館五稜郭に身を投じたからにほかならない。
 ちなみに、著者藤原相之助(1867〜1947)は秋田の人。明治二十五年(1893)から約一年間「東北新聞」に本書のもととなった原稿を連載し、大正三年(1914)には河北新報社に主筆として招かれた。
 明治以降の東北地方は戊辰戦争の戦火に荒れ果てたばかりか、順逆史観によってなにかと冷遇されたために復興もままならなかった。その影響は地価のあまりの安さにもあらわれ、
「白河以北一山百文」
 と蔑む声もあったほど。今日も仙台市に本社を置くブロック紙「河北新報」の紙名の由来は、「白河以北一山百文」といわれた白分たちの在野精神を大いに発揮してみせようではないか、という点にある。
 藤原相之助の筆が時に熱を帯び、引用史料名を明記するのを忘れることがあるのも、このような風土と無縁ではない。

 かつて大佛次郎が「朝日新聞」に労作『天皇の世紀』を長期連載していたころ、仙台藩の動向を描く「武士の城」の章に至るや、俗謡までも本書から引用しつつ記述するのをつねとした。
 毎日この連載を読むのを楽しみにしていた藤原家の人々は、「またお父さんの本の引用だ」と言い合って喜んだ、という佳話がある。
 本書は前述の日本史籍協会叢書(続)に収録されたほか、一九六八年に柏書房から復刻されたこともあった。だが、いずれも今では入手困難なので、マツノ書店版がいよいよ刊行されるのはまことに欣快に堪えない。
 もって本書を推薦するゆえんである。
(本書パンフレットより)