幕末維新史の根本史料、索引・地図を付けて初の完全復刻!
定本 奇兵隊日記 全5冊+人名索引
 田村哲夫・校訂/田中彰・監修
 マツノ書店 復刻版
   1998年刊行 A5判 上製 函入 542頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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【上 巻】
第一部 奇兵隊日記
 第1 馬関攘夷戦争

01 文久日記一 文久三・六・六−六・十五
02 文久日記二 文久三・六・一六−七・十四
03 文久日記三 文久三・七・一五−八・九
04 壇の浦日記一 文久三・七・五−八・十七
05 田野浦日記 文久三・八・一五−九・二
06 文久日記四 文久三・八・十−九・三
07 文久日記五 文久三・九・三−十・十三
09 文久日記六 文久三・十・十四−十二・晦
09 元治日記一 元治元・一・一−二・十七
10 元治日記二 元治元・二・十八−四・二十
11 壇の浦日記二 元治元・五・一−八・四

 第2 元治の内乱
12 元治日記三 元治元・八・十−十・二十
13 鴻城日記 元治元・九・五−十・四
14 元治日記四 元治元・十・二十−十一・三 徳地在陣
15 元治日記五 元治元・十一・四−十一・十四 鴻城在陣
16 元治日記六 元治元・十一・十五−慶応元・一・二十二 長府在陣
17 慶応元年日記一 慶応元・一・二十二−四・一
18 生雲日記 慶応元一・晦−四・二十二
19 慶応元年日記二 慶応元・四・二−五・二十九
20 慶応元年日記三 慶応元・閏五・一−十二・二十九 吉田在陣

【中 巻】
 第3 幕長戦争

21 慶応二年日記一 慶応二・一・一−四・二十九 吉田在陣
22 慶応二年日記二 慶応二・五・一−六・四 吉田在陣
23 慶応二年日記三 慶応二・六・五−七・二十六 長府在陣
24 馬関日記 慶応二・七・二十八−九・四
25 慶応二年日記四 慶応二・八・八−八・晦 小倉在陣
26慶応三年日記一 慶応三・一・一−三・二十八 足立在陣

 第4 吉田在陣
27 慶応三年日記二 慶応三・三・二十九−八・十二 吉田在陣
28 慶応三年日記三 慶応三・八・十三−十一・七 吉田在陣
29慶応三年日記四 慶応三・十一・九−十二・二十七 華浦出張

 第5 戊辰北越戦争
30 明治元年日記一 明治元・三・十七−四・二十三
31 明治元年日記二 明治元・四・二十五−閏四・十
32 柏崎会議所日記 明治元・五・十−八・一
33 与板出張会議所日記 明治元・五・二十七−八・一
34 明治元年日記三 明治元・七・十二−八・二十四
35 明治元年日記四 明治元・九・十七−九・二十七

 第6 諸隊精選
36 明治二年日記一 明治二・二・五−二・十四
37 明治二年日記二 明治二・二・十五−七・一
38 明治二年日記三 明治二・七・一−十一・十一


【下 巻】
第二部 奇兵隊日記付属記録

 第1 創設日記・諸記録
39 奇兵隊創設日記(写本)文久三・六・六−十一・一
40 奇兵隊諸記録 文久三・六−元治元・八

 第2 叢書
41 叢書一 安政五−元治元
42 叢書二 元治元・二−慶応元・二
43 叢書三 文久三・十二−慶応元・十二

 第3 小倉口戦争一件
44 長府在陣聞取書 慶応二・六−七
45 豊前地戦争一件日記 慶応二・六−慶応三・三

 第4 諸隊嘆願書
46 諸隊嘆願書写一 元治元・八−慶応元・二
47 諸隊嘆願書写二 明治二・十二

 第5 死傷者名簿
48 争地度数死傷名録 (慶応二・六−明治元・一)
49 軍忠状写死傷性名録 明治元年十二月(北越戦争死傷者)

第三部 奇兵隊関係史料
50 諸隊会議所日記(写本) 慶応元・十・八−十二・三
51 上国報知控 慶応四辰ノ正月 津田姓
52 推記 明治三年正月 秋月

【別 冊】
@人名索引 田村哲夫
A補完史料
 長三洲筆記 奇兵隊 戊辰役日載(小山良昌)
 奇兵隊戊辰五月十九日後 越後陸奥出羽戦争概略(小山良昌)
B解説
 奇兵隊と明治維新(田中彰)
 『奇兵隊日記』の伝存と成り立ち(青山忠正)
 尊壌堂と『奇兵隊日記』の写真について(青山英幸)
 『奇兵隊日記』と諸隊史料(三宅紹宣)
C原本・刊本対照表

【付 録】
奇兵隊日記絵図四十九枚 (解説・青山忠正)

 維新史研究の再構築
 奇兵隊は、文久三年六月、高杉晋作によって創設された。以後諸隊の結成も相つぎ、奇兵隊以下諸隊は、幕末維新の展開過程で重要不可欠の役割を果たした。それゆえ、奇兵隊の研究は、同時に幕末維新史の研究と重なり、長い幕末維新研究史の上で、重要なキー・ポイントとなっている。
 その奇兵隊研究の史料として最も重要視されてきたのは、奇兵隊日記である。当直隊士の手によって日々綴られたこの日記の原本は、品川弥二郎の尊攘堂に置いてあったが、現在は京都大学附属図書館に所蔵されている。これを「尊攘堂本」という。その写本は山口県文書館所蔵の「毛利家本」、東京大学史料編纂所所蔵の「史談会本」などがある。そして一般的には、活字化された日本史籍協会叢書の『奇兵隊日記』全四冊が流布している。
 しかし、この日本史籍協会本は「史談会本」から復刻したと思われ、「尊攘堂本」と対比すると、相当長文の欠落が随所にあり、人名・地名の誤読も多く、必ずしも十分な校訂がなされているとはいい難い。さらにその構成は錯雑した配列のため使用しにくい。これは、本書の史料としての性格から考えて、重大な難点と言わざるを得ない。その欠陥を補うべく、厳密な校訂による「尊攘堂本」からの完全復刻とその再構成を試みようと企画したのが、このたび刊行する『定本奇兵隊日記』である。
 この計画は今から約十年前に立てられた。以来、元山口県文書館専門研究員の田村哲夫先生及び愛子夫人の昼夜を分かたぬ熱心かつ長期にわたる解読・校訂によって徐々に活字化を進めてきた。田中彰先生も形だけの「監修」でなく終始陣頭指揮に当たられ、本文の校閲にも多くの貴重な時間をとって下さった。その結果、本文中の挿画や別冊の絵図も含めて、奇兵隊日記を最も原型に近い形で、初めて完全復刻することができたと自負している。

  本書の編集方針は次の通りである。
@本書は「尊攘堂本」奇兵隊日記全二十九冊を底本とし「毛利家本」と校合・補訂の上、復刻したものである。
A「尊攘堂本」は、必ずしも合理性のある合綴および配列とは思われない。したがって本書では、この合綴、配列を解き、編年を基本として、日記作成時の原型に近い形に配列し、時期ごとに分類した。
 また今回の復刻に際し、次の新資料を加えた。
@五千三百名に及ぶ人名索引。A「尊攘堂本」に付されている絵図四十九枚。B毛利家文庫所蔵、関連史料の一部復刻。C田中彰先生ほかの九十頁に及ぶ詳細な解説。

 附図について
■ 「奇兵隊日記」には冊子体の記録以外に付属史料として絵図四十九枚が含まれている。この絵図は今回初めて復刻されるものである。
■ 長州藩内では隊員は土地勘を持っており地図が必要なのは藩外での戦いである。奇兵隊は越後長岡から会津若松での激戦が多かったので、その方面の地図が多い。
■ 絵図を対象地域によって分類すると広い意味で長州藩に関係した図が五点、戊辰北越・会津戦争に関係した図が四十四点である。
■ 絵図を内容から見ると奇兵隊が作成したと判断される簡単な略図と、外部から入手したものとみられる精密な絵図とに分けられるが、その境界は定かではない。
■ 研究に際してこうした画像資料を利用することは、奇兵隊については未だまったくといってよいほど行われていない。本書によって、絵図をふまえた研究が進むことを期待したい。
■ 復劾に際して、次の操作をおこなった。
 @すべての絵図をA3版に縮小した。
 A色刷りの絵図も数枚あるが、重要性を考慮した結果、一枚だけをカラー印刷にし、あとはすべてモノクロで印刷した。
■ 絵図名の一部
 長府藩勝山城周辺絵図 小倉藩領内里付近絵図 石見国絵図 下関絵図 薩英戦争鹿児島湾図 越後国蒲原郡馬取村にて探索略図 越後国長岡・新発田間道路絵図 越後津川・会津若松間道路絵図 会津若松城下絵図


 ”決定版”の刊行をよろこぶ
   東京大学史料編纂所教授 宮地 正人
 私は仕事柄、幕末維新期に作成された全国各地の探索書・風説留に?々目を通すことがある。武士や農民そして町人の人々が、どのようなことがらに関心を寄せ、必死に事態の推移と真実を知ろうとしていたかが、最も的確に判明するのがこの種の史料なのである。
 私にとって特に印象深いのは、それらのいずれもが、文久三年五月の下関での奉勅攘夷砲撃、元治元年八月の下関戦争、そして慶応二年の四境の戦いに熱い関心のまなざしを向け、長州藩の敗北してもまた立上がる強靭な軍事力の秘密を、武士階級の正規軍ではない、奇兵隊を始めとする諸隊勢力の存在に見いだしている事実である。そして記録者たちは、ひるがえって自国と自藩の軍事編成の問題を凝視する。

 奇兵隊の性格については、従来もさまざまな立場で論じられてきた。ただ私が不満に思うのは、当時の諸階級の人々のこのような尋常ならざる関心という実態を踏えての検討が、未だ不十分なのではないのか、ということである。そして明治元年の戊辰戦争期に至るや、「勇士同志」の結合体である奇兵隊以下の諸隊を中核とし、農兵、町兵、郷士隊等から構成される強力な長州藩兵制こそが、諸藩と各地に叢生する草莽諸隊の自己変革すべき具体的なモデルとして立ちあらわれる。
 文久三年六月五日、セミラミスとタンクレード二仏戦艦攻撃を直接の契機として形成された奇兵隊がどのようなものに成長するのかは、当事者の高杉も含め見通しがあった訳では決してあるまい。只一つ明白なことは、従来の藩軍事力では近代西洋諸国の強大な軍事力には全く太刀打ち出来ないという点であった。そして明治三年一月の脱隊騒動による長州藩諸隊の解体に至る足かけ八年間の長州藩は、外圧とナショナリズム、民衆と近代軍隊という明治維新史研究の第一級の課題を解くべき絶好の場なのであり、その際の根本史料が『奇兵隊日記』なのである。

 今回マツノ書店から、京都大学所蔵の原本に基き、戦前の日本史籍協会本の誤植、脱落等の多くの不備を全面的に改めた決定版が刊行されるという。しかも参加した隊員個々人の動きをおさえる上で不可欠な詳細な人名索引も附されている。奇兵隊を中核とする諸隊研究が山口県レヴェルではなく、全国レヴェルで展開されることを切望している者として、今回の刊行をよろこび、一文を草する次第である。
(本書パンフレットより)


 奇兵隊研究のあたらしい動向を期待する
    北海道大学文学部教授 井上 勝生
 マツノ書店から『奇兵隊日記』が京都大学付属図書館所蔵の原本によって、正確に復刻されると聞きました。明治維新を研究するものとして、マツノ書店の事業にはお世話になってきましたが、今回の復刻事業も、待ち望まれていた仕事で、学会に寄与するところきわめて大きいと、感謝します。
 奇兵隊は、マッカーシズムの嵐のなかで悲劇的な死を遂げたE・H、ノーマン(『日本における近代国家の成立』)、そして遠山茂樹、井上清、田中彰、芝原拓自などの錚々たる先学によって、明治維新を推進し、担った軍事・政治勢力を代表的に示すものとして、さまざまに論じられてきました。論争は、同時代の課題と重なって、日本の近代の性格の評価をめぐる歴史学会を揺るがす、実に緊迫した論争になっていました。

 奇兵隊が戦った幕長戦争、戊辰戦争、いずれも日本の近代の出発の帰趨を賭けた戦いであることからも、庶民も入隊していた奇兵隊は、明治維新史研究の論争の核心のひとつとなって当然です。維新史研究について、西南雄藩に研究が偏りすぎているといった批判がだされ、実際にそれは拝聴すべき批判ですが、西南雄藩の研究の重要性は、それによって、決して減少するものではありません。
 近年、奇兵隊の研究が、著しく減少しているのは、わたしは、まったく新しい研究動向が登場する準備の谷間ではないかと、考えています。現在、世界的に、「近代(モダン)」とは何か、その光と影を精密にとらえようとする研究が渦巻きはじめています。世界における近代の光と影、そして日本における近代の光と影、こうしたものに研究者の厳しい検証の視線が届きはじめたのです。
 『奇兵隊日記』を繙く時、奇兵隊が維新のトレーガーとして果たした活動と同時に、やがて脱隊騒動に帰結する大きな「暗闇」、そして「暗闇」にいたるさまざまの隊士の低層での悲劇的な事件の数々に気付かざるをえません。事件のひとつを「志士と民衆−長州藩諸隊と招魂場」(岩波講座 日本歴史 第16巻 近代1)に記しました。そこでも、奇兵隊日記の原本を使って論証しましたが、事実の厳密な検証には、正確なテキストが不可欠です。若い研究者たちが、マツノ書店刊行の正確なテキストから、奇兵隊のさまざまな光と影を鋭敏に追求し、やがて日本「近代」の光と影を大きく再構成してくれることを期待してやみません。
(本書パンフレットより)


 明治維新史の本質理解に不可欠なカギ・完全復刻『定本奇兵隊日記』成る
    大阪大学名誉教授 梅溪 昇
 このたび、十年余の歳月をかけた、原本からの完全復刻の『定本奇兵隊日記』が、その付属史料・絵図四十九枚、毛利家文庫所蔵の関連史料、詳細な解説および人名索引など、研究上の新資料とともに、徳山市のマツノ書店から刊行されることになった。
 奇兵隊は一八六三年(文久三)高杉晋作が藩に出願し、門閥に関係なく農商をも編入して実力主義のもとに創設した長州藩の非正規軍隊である。以後諸隊が続出したが、奇兵隊は下関砲撃事件・長州征伐などに藩の保守派を退けて奮戦、戊辰戦争にも従軍、終始尊攘討幕運動の先頭に立った長州藩軍事力のかなめであった。奇兵隊の活躍は、早く『防長回天史』に述べられ、いらい多くの記述があるが、その見解もさまざまで未だ本格的な同隊に関する研究はないといってもよい。

 戦後間もなく高揚した明治維新史研究が、単に維新に至る歴史的経過を辿るに止らず、進んで歴史を押し進めた原動力を究明し、維新変革の性格を論ずるようになって、奇兵隊の問題がクローズアップされたのである。すなわち、E・Hノーマン氏は『日本における兵士と農民』、遠山茂樹氏は『明治維新』、井上清氏は『日本現代史第一巻明治維新』、奈良本辰也氏は『増補改訂近世封建社会史論』において、それぞれ奇兵隊についての歴史的評価を与えられ、これらの見解は必ずしも同一ではないが、おおむね奇兵隊のもつ反封建的性格ないし民衆のエネルギーが強調された。当時、筆者も「明治維新史における奇兵隊の問題」を発表して、奇兵隊の民衆的要素を検討し、その反封建的エネルギーの過大評価を批判した。これに関しては直ちに小西四郎氏その他から「過少評価」も警戒すべしと批判を受けた。
 この拙論を書いたのは、一九五三年(昭和二八)のことで、すでに四十数年も以前のことになるが、当時使用の史籍協会本『奇兵隊日記』から人名その他をいちいちカードにとって、入隊時の身分を調べ、不十分ながらも身分別隊員構成表をつくったのも今では懐かしい思い出である。ともあれ、さきの諸先学の研究が示すごとく、奇兵隊の研究・評価は、明治維新史全体の解釈につながる問題である。その前進のためには、根本史料である『奇兵隊日記』の正確・完全なものについて徹底的な検討が行なわれなければならない。

 従来われわれの使用してきた史籍協会本は、写本の一種「史談会本」からの復刻といわれ、原本である「尊攘堂本」と対比すると、相当長文の欠落が随所にあり、人名・地名の誤読も多く、十分な校訂がなされていないとされていた。しかし、このたびマツノ書店の英断により原本からの完全復刻の企画が実現したことはまことによろこばしい限りである。
 この復刻は、元山口県文書館専門研究員の田村哲夫氏、および愛子夫人の長期にわたる献身的なご努力と明治維新史研究の第一人者・田中彰教授の監修のもとに、同氏と青山忠正・青山英幸・三宅紹宣三氏の解説、奇兵隊人名索引、補完史料から成る別冊奇兵隊日記絵図を併せて刊行されるもので、大方の読書人および学界にひろく推奨するものである。
(本書パンフレットより)


 「奇兵隊日記」索引について
   一坂 太郎
 いまを去る十二年前のこと。大学入学のために上京したての私は、神田の某古書店の棚に並んだ、『奇兵隊日記』全四冊を見つけた。『奇兵隊日記』は大正七年、日本史籍協会から出版されたのが最初だが、それは昭和四十二年に睦書房から出た復刻版だった。
 欲しくて欲しくて、毎日、その古書店に通っては、中身をパラパラとめくった。隊士たちの日常が生々しく記録されていて、どこを読んでも新鮮で、感動的だった。
 そんなことを一力月近くもくり返し、私はついに決意をかため、『奇兵隊日記』を棚から下ろして、レジに持って行った。二万五千円の値段がついていたが、店員が山口県出身の人で、千円値引きしてくれたのを覚えている。実はそのうちの二万円は、故郷の親が冷蔵庫を買いなさいと、仕送りしてくれたお金だった。以来、私の部屋には大学卒業まで、冷蔵庫というものが無かった。だが、この瞬間に私の将来が決まったのかもしれない。
 『奇兵隊日記』と聞くと、私はそんな他愛もないことを思い出す。いまでも書架に並ぶ四冊本は、付箋や傍線が増えて少々くたびれてはいるけれど、私が史学を学び始めたころの情熱の記念品だ。だから他のどの史料よりも愛着がある。
 こうして手に入れた『奇兵隊日記』ではあったが、正直言って実に使い難い史料であった。なにせ索引はもちろん、大ざっぱな目次すらも付いていないのである。たとえば「高杉晋作」のことを調べたいと思っても、一巻の一ぺージ目から見てゆかないと、どこに出てくるか分からない。これは楽しくもあったが、大変な作業だった。
 東行記念館学芸員になってからは、『奇兵隊日記』を拡げる回数が、さらに増えた。隊士の遺族の訪問を受けて質問されると、私は『奇兵隊日記』から、ひとりの隊士の行動を追って回答するのが常になった。そのたびに、せめて人名索引だけでも付いていたら、どれ程便利だろうと切に感じた。自分で作ってみようかと考えたこともあるが、案の定挫折した。

 その希望が僅か数年後に現実のものになろうとは、思ってもみなかった。しかも数々の問題点が指摘されて来た日記本体が、八十年ぶりに新たに厳密な校訂を経で、「完全復刻版」として刊行されるのである。なんて素晴らしいことだろう!こんな幸せな時代に生まれたことを、私はまず感謝したい。

 奇兵隊はその名前が知られている割には、隊士個々の事歴について、詳しい調査、研究がなされているとは言い難い。
 奇兵隊が近代日本の軍隊はもちろん、国家全体に及ぼした影響は、はかり知れないものがある。そのことは、隊から陸軍大将一人(山県有朋)と陸軍中将五人(鳥尾小弥太・三浦梧楼・三好重臣・三好六郎・滋野清彦)を出していることからも、うかがえるであろう。彼らが奇兵隊内でどんな働きをして、どのような地位に在ったのかを具体的に知るのも、意義深いことだろう。これまでは人名辞典に所収された略歴などで、「数々の戦功を立て…」とか「頭角をあらわし…」とか、漠然と片付けられていたことが、索引を使うことで、実に容易に調べることが出来るようになる。
 また、脱隊騒動をはじめとする、数々の事件で抹殺されていった、悲運の隊士たちの行動を具体的に辿ってみるのも、興味深そうだ。案外、これまで知られていなかった事件の側面が見えてくるかも知れない。
 一冊の索引が、今後の維新史研究の大きな鍵を握っていることは間違いない。私も今後何十年か、死ぬまで座右の書として、離さないと思う。
(本書パンフレットより)