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松陰一族の行政官が冷静かつ正確に記した維新史の空白を埋める膨大な日記、堂々初の活字化 |
久保松太郎日記 | |
一坂太郎・蔵本朋依 校訂 | |
マツノ書店 | |
2004年刊行 A5判 上製函入 893頁 パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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■『久保松太郎日記』は、安政三年(1856)六月から明治四年(1871)十二月に至るまでの、長州藩士久保松太郎(清太郎・断三)の日記です。 ■久保自身は派手な活動はないものの、親戚の吉田松陰は「外愚内明、温良にしてしかも鉄心石腸」と評し、最も厚い信頼を寄せていました。彼はつねに縁の下の力持ちという立場で、幕末長州藩の青年達、また長じては木戸孝允の片腕として、藩の体制を支え続けました。 ■この日記には幕末の萩や山口はもちろん、久保が地方行政官を歴任した舟木・吉田・上関・下関、さらに出張先の長崎などの様子が細かく記録されています。公務から食事の献立、健康状態、遊んだ芸妓の名前や容姿に至るまで、激動の中に生きる久保の姿が如実に反映されていて、興味は尽きません。 ■もちろん、攘夷戦争、四境戦争、諸隊脱隊騒動など数々の歴史的大事件の渦中で書かれた部分や、吉田松陰・桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作・坂本龍馬・中岡慎太郎等々との交流を記録した部分など、幕末維新史の史料として超一級の内容を備えていることは、言うまでもありません。 ■『久保松太郎日記』自筆原本は、かつて東京の久保家に所蔵されていましたが、同家が昭和二十年(一九四五)に戦災に遭った際、他の史料と共に灰燼に帰してしまいました。しかし幸いなことに、大正の頃、公爵毛利家編修所スタッフにより筆写された「久保松太郎日記」十一冊が、山口県文書館毛利家文庫中に残されていましたので、これを基に今回刊行が実現しました。 ■他に類を見ない幕末維新史料であり、しかも『吉田松陰全集」に抄録されて、その重要性は高く評価されているにもかかわらず、不思議なことに、これまで一度もその全貌が公刊されることはありませんでした。内容を一覧すれば、これほどの史料が眠っていたことに、誰もが驚きの声を上げることでしょう。 |
『久保松太郎日記』 登場人物(一部です) |
青木周弼 赤根武人 有吉熊次郎 飯田正伯 伊集院直衛門 伊藤博文 井上馨 入江九一 浦靭負 遠藤謹助 大久保利通 大山巌 大村益次郎 小野為八 桂小五郎(木戸孝允) 片野十郎 揖取素彦 木梨精一郎 久坂玄瑞 口羽徳祐 国司信濃 久保無二三 来原良蔵 黒田清隆 西郷隆盛 西郷従道 斎藤弥九郎 坂本龍馬 佐久間佐兵衛 佐々木男也 宍戸九郎兵衛 宍戸機 清水清太郎 品川弥二郎 白石正一郎 白根多助 周布政之助 杉孫七郎 杉民治 杉百合之助 大楽源太郎 高杉小忠太 高杉晋作 竹内正兵衛 玉木彦介 玉木文之進 土屋粛海 寺島忠三郎 道家竜助 時山直八 中岡慎太郎(石川誠之介) 長井雅楽 中谷正亮 中村誠一 中村道太郎 梨羽才吉 楢崎弥八郎 野村素介 野村靖 林半七 広沢真臣 平岡兵部 福原越後 福原与三兵衛 福田侠平 北条瀬兵衛 前田孫右衛門 前原一誠 正木退蔵 益田弾正 松島剛蔵 南貞助 御堀耕助 三吉内蔵助 宮城彦介 三吉愼蔵 毛利登人 山尾庸三 山県有朋 山田顕義 山田宇右衛門
吉田稔麿 渡辺内蔵太 李家文厚 |
維新史研究に新境地を拓く「久保松太郎日記」の刊行を喜ぶ 京都学園大学学長 京都大学名誉教授 海原 徹 |
松陰と机を並べ 久保松太郎は、天保三年閏十一月八日、萩藩大組士(四十九石余)久保五郎左衛門の長男として生まれる。名は久清、通称を初め清太郎、のち松太郎といったが、明治になり断三と改める。父が病身で弘化元年、四十一歳で隠居したため、十三歳の若さで家督を継いだ。吉田家とは縁戚となるが、これは松陰の叔父、のち養父となる大助が、庄屋森田家の娘久満を嫁にするさい、家柄を合わせるため久保家の養女としたことから生じたものである。外叔五郎左衛門、外弟清太郎(村塾時代は一貫してこの名前)などと松陰がいうのは、このためであるが、むろん血縁関係はない。松太郎が生まれた頃、一家は城下土原に住んでいたが、父の隠居後は松本椎原に転居した。杉家の東、半町ほどの距離というから、すぐ近くである。松陰の叔父玉木文之進が自宅で創めた松下村塾に学び、松陰やその兄杉梅太郎らとは、机を並べた同窓である。 よく知られているように、公務で忙しくなった玉木は、間もなく松下村塾を閉じたが、この塾名を継いだのが、隠居後自宅で教えていた五郎左衛門である。野山獄を出た松陰が、一時期助教として教えたことがある。いわゆる幽室に始まった松陰自身が主宰する松下村塾は、この塾札を改めて五郎左衛門から譲り受けたものであり、安政四年春、江戸から戻った松太郎は、ここに出入りして学んだ。師の松陰とさほど年齢が違わず、また玉木の塾の学友でもあり、弟子というよりむしろ助教的な存在であろう。間もなく始まる須佐育英館との交流のさい、助教の富永有隣と塾生十数名を引率したのは、そのことを裏書きしてくれる。 木戸孝允の片腕 ところで、松太郎はどのようなタイプの人物か。松陰が喜怒哀楽を顔に出したのを見たことがない、塾中に能弁家は多いが、むしろ寡黙な松太郎の方が重きをなしているといい、また杉梅太郎が弁舌爽やかではないが、知略に勝れ人情世故に長け、時に含蓄のある意見を述べ、啓発されることが多いと評したように、普段は極めて温和な性格であるが、ここぞという時は頼りになる一本筋の通った人物であったようだ。塾中の政治的謀議に距離を置き、あまり関係した形跡がないのは、そうした人柄と無関係ではなかろう。その万事に慎重かつ大人風の姿勢は、懐慨家の多かった村塾ではむしろ異色の存在である。 おそらくその人と為りのせいと思われるが、松太郎は行政家として早くから才能を発揮している。文久三年、三十一歳の若さで船木代官に挙げられているが、その後、各地の代官や役職を歴任し、民政畑で手腕を見せている。維新後は萩藩の会計局主事に任じられたが、このポストは執政(藩主〕や副執政、参政につぐ要職であり、事実上藩財政を担当した。問もなく権大参事となり、参政として藩政を指導した木戸孝允の片腕となって活躍した。木戸が中央に去ってからも、絶えず連絡を取り合い、禄制改革や兵制改革に伴う脱隊騒動など、この時期、藩体制が直面した数々の難局に当たっている。 明治四年に発足した山口県では、中野梧一の下で権参事として勤務したが、地租改正の実施方法などでしだいに意見が合わなくなり、翌年九月、名東県の参事として転出した。間もなく権令となり、得意の民政面で手腕を発揮したが、中央政府の上意下達的な地方行政を必ずしも喜ばず、事々に対立するようになり、結果的にはこれが原因で、度会県権令へ転出した。度会県は問もなく三重県に統廃合され、久保はそのまま非職となった。地租改正の時期尚早、もしくは独自の改正案をたびたび中央へ進言していた、そのどちらかといえば民衆寄りの政治的姿勢が免官の原因であろう。上京して再挙を図ったが、西南戦争中に木戸孝允が急死したため、再び世に出ることはなかった。十一年夏頃から断三自身が病床に伏す身となり、この年十月二日に死んだ。享年四十七歳。従五位。長女サダはまだ幼く、久保家は異母弟の幾次郎が継いだ。 知られざる日記 「久保松太郎日記」は、安政三年六月、江戸勤番中に筆を起こし、明治四年十二月、山口県参事中野梧一を迎えるため上京した頃までの日記である。公務を中心に、友人知己の出入りや諸役進退などを淡々と記した備忘録に近いものとなっており、個人的な感想や批評の類いはほとんどなく、その意味ではあまり面白くない日記である。村塾の会で聞いた松陰の刑死を、「先師死処伝馬町上り屋ニて小塚原え葬候由」とは、いささか解せない落ち着きぶりであるが、この辺りは、松太郎の日頃の性格をそのまま映したものであろう。 感情移入を努めて排したというのは、別の見方をすれば、極めて冷静かつ正確な記述ということもできよう。松陰の没後、断続的にあった村塾の勉強会は、久坂玄瑞の日記や書簡などで知られるが、松太郎の日記で別の角度から検証することが可能になった。村塾で共に学んだが、その後の動静がはっきりしない塾生たちの名前が随所に登場するのも、極めて貴重であり、この日記を見ることで、これまで維新史の空白となっていた箇所が、次々と解明されることはおそらく間違いない。 久保日記の存在は、『吉田松陰全集』に一部掲載されているように、早くから知られていたが、先の大戦で原本が失われたこともあり、全文が世に出たことは一度もない。志士的活躍に一線を画した松太郎の出所進退、あまり華やかでない、いかにも地味な生涯が大方の関心を呼ばなかったのも、もう一つの理由であろう。戦前世に出た広瀬豊『松陰先生の教育力』は、この日記を豊富に利用して書かれた唯一の本であるが、日記それ自体は一般にはほとんど知られていない、歴史の彼方に忘れられた存在となっている。 その意味では、今回、マツノ書店から初めて刊行される「久保松太郎日記」は、われわれ維新史研究に携わる者はいうまでもなく、広く一般読者にも待望の書である。新進気鋭の二人の若い研究者が、満を持し正確無比の校訂を付したことも、本書の史料的価値を一層高めているように思われる。維新史研究に新境地を拓く、また一つ素晴らしい書物が供に出ることを大いに喜び、心から歓迎の言葉を申し述べたい。 (本書パンフレットより) |