長州維新史を補完、幕末史料の森
旧幕府 全5巻+総目次
戸川残花
分売不可・A5判

内容見本pdf
戻る
HOME



■『旧幕府』は明治三十年代に刊行された雑誌で、維新史研究に不可欠の史料であるにもかかわらず、永年にわたって入手困難でした。小社ではその全48冊を全5巻の上製箱入本にまとめて復刻しました。
■本誌は幕末維新の乱世を生き抜いてきた関係者が老齢を迎える頃、彼らの直接参加を得て編纂された、全編これ生の史料の大集成。時と共にその価値を増している貴重史料です。
■本誌の欠点は、目次に頁数がついていないことでした。本誌は昭和46年、臨川書店と原書房によって同時に復刻されましたが、どちらもその修正をしていません。
■今回の復刻に際して小社では、全5巻の各頁に通し番号(ノンブル)を付す共に、それに基づく「総目次」を作成し、たいへん使いやすくなりました。
■そのほか、本書への理解を深めて頂くため次のような新論文を収録します。
@『旧幕府』の時代的背景        北海道大学名誉教授 田中 彰
A『旧幕府』私の使い方           作 家  中村彰彦
B『旧幕府』とその時代            評論家 紀田順一郎
C『旧幕府』と長州 (仮題)       静岡大学名誉教授 田村貞雄
D雑誌『旧幕府』に集った人々     歴史民俗博物館助教授 樋口雄彦 
E主要執筆者紹介                 〃 

テーマ別『旧幕府』収録記事一覧(抄)
【口絵】
徳川家康肖像 小笠原長行肖像 徳川家光和歌親筆 松平容保写真 板倉勝静写真 永井尚志写真 箱館戦争海戦図 白虎隊自害の図 幕府軍艦開陽丸 オランダ留学生 徳川家達写真 岩瀬忠震画 徳川慶喜写真 大鳥圭介写真 徳川家茂親筆 松平春嶽写真 ペリー浦賀上陸図 向山黄村写真 木村芥舟写真 回天艦品川沖で薩摩艦を砲撃の図 太平洋上咸臨丸の図 田辺太一写真 栗本鋤雲写真 箱館戦争松前城砲撃の図 榎本武揚写真 山内容堂詩 徳川斉昭書 大塩平八郎手翰 勝海舟写真 高島秋帆自画賛 佐久間信久写真 林忠崇写真 会津日新館の図 高橋泥舟写真 松平太郎写真 林述斎肖像 遣米使節一行 江川坦庵肖像 パリの徳川昭武一行 長野主膳夫婦和歌 函館碧血碑

【伝記・自伝・人物履歴】
小笠原明山公御事蹟 幕府名士小伝 中浜万次郎伝 大久保一翁伝 文明公国事勤労明細書 板倉伊賀守伝 永井玄蕃頭伝 関口隆吉伝 勝伯略伝 高島四郎太夫伝 三河屋幸三郎の伝 昭徳公御記(家茂公伝) 松平春嶽公履歴略 文恭公御実記 栗本鋤雲翁の自伝 蕃山熊沢了介先生記事 松岡盤吉君小伝 沢太郎左衛門氏の略歴 和宮御逸事 広沢安任翁小伝 甲賀源吾君の略伝 雲井龍雄伝 川路左衛門尉聖謨小伝 会津藩老神保修理の事 堀内蔵頭小伝 安藤家十代対馬守信正履歴 林昌之助忠崇伝 坦庵江川太郎左衛門先生の伝 夢酔独言 長野主膳略歴記事 鈴木春山翁略伝 島津斉彬公之事 水野越前守年譜 小栗上野介 故浅野美作守履歴 水野忠精年譜 棲碧妻木先生の伝 伝通院殿御事歴梗概草稿 江川家の忠臣望月鴻助 近藤勇の伝 矢部駿河守

【幕末の政局】
盤錯秘談抄 磁硯山房日録 村田氏寿翁の談話 徒然叢書 逸事史補 和宮様御東下日記 長州征伐日記 大政奉還始末 慶応日記抜抄 御進発御供日誌 秘束訳文 新伊勢物語 徳川十四代将軍御相続に関し
【外交】
米国より贈品並角力の図解 文久三年癸亥二月十九日英国軍艦より差出候書翰之大意 田中廉太郎氏の書翰 開国の曙 日本最初の米国留学生 三十九年前桑港新聞咸臨丸の記事 航西小記 荷蘭帆船史料「スペルウエル」号難破始末誌 下田港御用日記 松平石見守露国と樺太二分の約を定めたる始末 故村垣淡州遣米使日記を読む 幕府派遣の大使米国にて歓迎せらる(米国新聞抄訳) 西暦千八百六十年日本漫遊の米国エィチピービー氏の書翰訳

【教育・文化】
日本に於て西洋式火薬製造機械創立之記 写真事歴 日新館 講武所規則覚書 講武所稽古日割 幕府の陸軍刑法 医師拝領物天文方御用被仰付御目見被仰付

【民情】
幕末に於ける諷刺的童謡 諸国産物集 諷刺画 連俳の諷刺 乍恐売弘めのため口上 知世保具永婦志 今様流行物語 当世いろはたん歌 童謡一束 時務策チヨホクレ 錦旗勅命丸と江戸の水 前代未聞阿房鏡独道行 開席料理三者論 漫録 
【戊辰戦争】
戊辰之夢 南柯紀行 彰義隊発起顛末 上野戦争碑記 函館始末 彰義隊戦争実歴鈔 函館脱走海陸軍惣人名 伏見戦争前後の記事 岡崎脱藩士戊辰戦争記略 旧上山藩江戸鹿児島藩邸浪士討伐始末 結城藩戊辰始末 二ツの宝船 上野戦争実記 宇都宮辺戦争記 伏見戦争前後之記事 函館戦史 薩邸砲撃の方略 中島君招魂碑文を読む 回天丸 出陣日記 大鳥圭介獄中日誌 国難私記 伏見戦争の一斑 幕末事況武士ノ名残 榎本船将品川抜錨之辞 輪王寺宮磐城路御落去之次第日記書抜

【江戸時代】
会津の藩風 将軍家の朝夕 大奥の服装 大奥の朝夕 旗本風俗 大奥の五節句 旗本国字分名集 日光東照廟造営簿 武家諸法度 年中衣服略記 柳営事略 幕府大奥役名扶持并乗物一覧 徳川家八朔祝賀の起因 御徒士物語 執政水野越前守改革(町触の写) 辻番心得 御蔭参記事之手簡 咬菜秘記 下総国小金中野牧江御鹿狩一件書留 旧幕時代年中行事 御舟記 御広間伝達帳写 日光御宮 御軍役人数積 鏑馬秘叢 御治世以後御加増所替 大久保家記 東照宮略記 日光山沿革大意 日光山略史 府城沿革 姫山君臣言行録 日光山堂社記鈔録 御朱印写 旧彦根藩旧記抜抄 家綱公御誕生に付宸筆の勅書御頂戴后宮御方まで御請

【史談会での談話者】
沢簡徳 丸毛利恒 本多晋 尾高惇忠 江川英武 田辺太一 長岡護美 下岡蓮杖 松平太郎 清水卯三郎 伊庭想太郎 荒井鎌吉 大沢基輔 飯島半十郎 永田正吉 江原素六 杉亨二 重野安繹 村田直景 武田信賢 山口挙直 木村芥舟 向井秋村 外崎覚 井上正直 柴太一郎 梶金八 関伝吾 荒井郁之助 町野五八 野本次郎

【漢詩・漢文・和歌・俳句等の掲載者】
木村芥舟 栗本鋤雲 向山黄村 杉浦梅譚 中島三郎助 勝海舟 榎本武揚 田辺太一 広沢安任 徳川斉昭 川路聖謨 鳥居燿蔵 成島司直 山口泉処 小笠原長行 新見正興 高橋泥舟 平山省斎 本多晋 水野忠邦 松平春嶽 木城花野 戸川安清 水野忠央

 『旧幕府』とその時代
評論家 紀田順一郎 
「旧幕府」は明治の詩人・評論家戸川残花(一八五五〜一九二四)の編纂により、明治三十年(一八九七)から約三年間にわたり刊行された旧幕臣の雑誌で、故老による回想や論考、文芸作品などを掲載し、一種の同人誌的な色彩を帯びているが、その後の幕末維新研究の先駆ともなった点で意義があり、今日資料誌としての声価が高い。

 明治維新は歴史上最大の変革であったから、その渦中にあった人々にもさまざまな命運をもたらした。とくに敗者としての旧幕臣、士族の場合は浮沈が激しく、新政府に出仕した者あれば、逆に反政府運動に身を投じた者あり、あるいは言論や文芸の道に活路を見出した者もあって、その動向は一様ではなかった。(十四行中略 今回の復刻版には全文収録)

 戸川残花が「旧幕府」を主宰した動機は、維新の故老がすでに頽齢に達した段階で、後世のために客観的資料を遺したいという願いからであるが、その裏面には旧幕人としての個々の感慨をいまのうちに記録しておこうという意図が伏在したことは疑いをいれない。当時までの逐次刊行物ないし分冊形態の資料誌としては「維新史料」(一八八八)、「開国史料」(同)、「史談会速記録」(一八九二)、「名家談叢」(一八九五)、「同方会報告(同方会誌)」(一八九六)等があり、これに東陽堂のグラフ誌「風俗画報」(一八八九)や東京帝国大学史談会の「旧事諮問録」(一八九一)まで加えれば汗牛充棟、いわばブームの感を呈していたといえる。その中に伍して、文学者の戸川残花が「旧幕府」を主宰した意味はどこにあるのだろうか。

 残花の六十九年の生涯を回顧して気がつくことは、前半の詩人としての経歴と、後半の歴史研究者・教育者としての経歴とにはっきりと二分され、その分水嶺となるのが明治三十年(一八九七)の「旧幕府」創刊になるという事実である(正確にはその前年に『徳川武士銘々伝』が上梓されているが)。「旧幕府」自体は約四年しか続かず、後継の「武士時代」(一九〇二)も約一年で終わったが、その後は幕末維新に関する著述に専念した。いろいろな事情はあったにせよ、後半生の彼がほとんど詩作を行っていないのは示唆的で、この雑誌の編纂も余技ではなかったことを思わせる。

 幕末維新回顧のブームの中で、あえて屋上屋を重ねることになりかねない雑誌を企画したのは、旧幕臣の思いを客観的記述に託して伝えたいということにあったろう。そのために資料的記事ばかりでなく、「幕府軍艦開陽丸の終始」「大鳥圭介獄中日記」「彰義隊戦争実歴抄」のような維新における幕軍側の記録をはじめ、「氷川茶話」「中浜万次郎氏伝」のような歴史上の人物の回想や伝記に重点を置いている。さらに名士の「詞藻」や当時の落書等のコラムまでを配し、幕府時代の文化や世相を伝えるように編集されている。今日の私たちから見ると、これらの誌面には旧幕人の生き方、思想、教養というものがにじみ出ているように思われるし、それこそが編集者の狙いであったと思われる。

 いわば「旧幕文化」という誌名がふさわしいような内容に、編者の当代への満たされない思いや屈折感が偲ばれる。明治もすでに三十年、旧幕臣としての思いを直截に口に出すことはデリケートな問題となっていた。残るところは回顧に託して心境を吐露する以外になかった。

 元来残花は懐旧の人である。「文学界」同人時代の「しのぶもじずりみだれつゝ いもがしるしのおくつきに なみだのつゆのひるまなし いまはむかしになりにけり」(『岸辺の柳』)というような情調の詩は数多い。これに加えて、同時代の「明智光秀」という論考の「光秀をして明治の世に生れしなば、渠が本能寺の一挙は正当防禦と云ふも敢て過言に非ざる可し」といった順逆の思想が、あたかも楕円の二つの焦点のように結像したところに、雑誌「旧幕府」と、一連の旧幕派史論が生まれたといってよい。

 雑誌は個人の著作よりも一時代をトータルに表す。単なる資料的価値を超えた当代の空気まで伝えるところに、雑誌を通読する意味があることはいうまでもない。このたびの復刻を機に、全ページを読み直したい。


『旧幕府』 私の使い方
作家 中村彰彦
 私が金三万五千円也を持って新宿区花園町の原書房を訪ね、『旧幕府』の復刻版全七冊を直接購入したのは昭和五十年代の末近くのことであった。

 当時の私は、文〇春秋に編集者として勤務しながら休日にだけ自分の原稿を書く“日曜作家”。大学で歴史学を学んだこともなかったが、同社の出版図書目録を眺めるうち『旧幕府』の多彩きわまる内容を知り、これは早く入手しておかないと、と思って出かけたのを昨日のことのように憶えている。

 その後まもなく、今は『新選組全史 幕末・京都編』『同 戊辰・箱館編』として角川文庫に収録されている拙作の原本を書くことになった時、『旧幕府』は早速役立った。

 いうまでもなく新選組は、そのスポンサーだった会津藩とともに銃砲ではなく刀槍によって戦うことを好んだ集団である。ところが『旧幕府』第一号の巻頭に史料として収録された「戊辰之夢〔沢氏日記〕」を読んでゆくと、鳥羽伏見の戦いの一光景として、こうあるではないか。  

「(会津藩の)鎗隊の者は重なる敵士の首二三個つつを鎗に貫き、敵の〇るを尾撃して進行したり」
 私はこの記述によって、会津藩が関ヶ原以来の古風な戦法しか知らなかったことを確認でき、上述の拙作にも自身をもってそう記述することができたのだった。

 平成三年六月末日付で文〇春秋を中途退社し、筆一本の生活に入った直後にも『旧幕府』は私をいろいろな世界へ案内してくれた。『旧幕府』の第二巻第四号、第六号、第七号に「結城藩戊辰始末」という貴重な史料が分載されている。

これによって主君は佐幕派、家老たちは二派に分裂という結城藩の悲劇を知った私は、結城市に取材旅行をして別の史料も入手し、百十枚の小説「臥牛城の虜」を「別〇文〇春秋」に発表することができた。(文春文庫『二つの山河』に収録)

 このころから私は『旧幕府』の汲めども尽きぬ泉のような意味合いにようやく気づき、全目次をワープロに打ちこんでその内容も略記するという作業に取りかかった。

 『旧幕府』は雑誌形式で出版されたので分載された記事が多く、目次を追うだけではどれがどれにつながっているのかわかりにくいものが少なくない。それがこの作業を終えた結果、大変使いやすい史料集となった。

同時並行して私が取材と執筆に取りかかろうとしていたのは、『遊撃隊始末』(文春文庫)であった。遊撃隊は上総請西藩主林忠崇、伊庭八郎、人見寧の三人を隊長とし、五稜郭まで戦いつづけた旧幕府脱走諸隊のひとつである。入手し得る限りの史料を博捜するにはとてつもない手間隙がかかったが、『旧幕府』第三巻第六号に請西藩士渡辺勝造の「出陣日記」が収録されており、ほかに重要な関連記事もいくつかあることは頭に入っていたので大いに助かった。

 その後、私は主人公を林忠崇ひとりにしぼり、『脱藩大名の戊辰戦争』(中公新書)を書いたから、『旧幕府』の遊撃隊関係記事にはずいぶんお世話になったことになる。

 私事ばかりで恐縮だが、私は歴史小説のほかに歴史ノンフィクションや歴史エッセイを書いて暮らしている。この稿に引き合いに出した「臥牛城の虜」や『遊撃隊始末』は歴史小説、ほかの拙作は歴史ノンフィクションに属する。私個人の勝手な感触でいえば、『旧幕府』には歴史の秘められた一面を読者に知ってもらうために、小説に加工することなく素材そのものを歴史エッセイとして紹介したほうがよい性質の記事のほうが多いようだ。

 伊豆韮山の代官江川家に仕え、その負債の返済に奔走して自殺した望月鴻助、名奉行と謳われながら老中水野忠邦の強権政治に抗議して餓死を選んだ矢部定謙については十枚のエッセイ「望月鴻助の奔走」「名奉行矢部定謙はなぜ餓死したか」を書いたことがある。(角川書店刊『還らざる者たち  余滴の日本史』所収)。これも『旧幕府』第五巻第四号所収の史伝「江川家の忠臣望月鴻助」、および第五巻第六号と第七号に掲載された史伝「矢部駿河守」を出典とした作柄であった。

 最後に特筆しておきたいのは、『旧幕府』の寄稿家のなかにはただの佐幕派士族ではなく、「野に遺賢あり」という成句を思い出してうなりたくなる人材も多数ふくまれていることだ。

 たとえば合本二所収、第八号の「金子与三郎書翰」には、記者のこんな注がついている。「金子与三郎氏は羽州上の山藩人にして(略)江戸赤羽根に於て清川八郎を斬りしは(或曰ふ小笠原閣老の内命なり)実にこの金子氏なり」

 清河八郎を斬ったのは佐々木只三郎、速見又四郎らの幕臣たち、場所は麻布一の橋だから、この注は完全に間違っている。

 すると果たして次号に「旧上山藩士堤某から「寄書(投書)」があり、その誤りを指摘した。その後、堤某は堤和保というフルネームをあきらかにして、第二巻第一号に「金子与三郎清邦小伝」を執筆。金子与三郎の冤を雪いだだけでなく、その後も「旧上山藩江戸鹿児島藩邸浪士討伐始末」ほかを寄稿するなどして堂々たる歴史家に成長している。

 私が「策士清河八郎は裏切られたか」という十枚のエッセイを書くことができたのは、すべて堤和保論文のおかげであった(中公文庫『関ヶ原合戦 秘められた真相』所収)

 以上でおわかりいただけたかと思うが、『旧幕府』は歴史愛好家を釣り人にたとえるならば、その眼前にひろがる魚影豊かな海そのものなのだ。

 マツノ書店の努力により、その魚影豊かな海が甦ったことは読書界の欣快事というべきであろう。
復刻版解説
雑誌『旧幕府』に集まった人々
樋口雄彦
 『旧幕府』 には、戊辰戦争を戦った旧幕臣の原稿・談話・史料等が極めて多い点に着目したい。主だったところでは、鳥羽・伏見戦争は沢太郎左衛門・岡崎撫松ら、上野戦争は本多晋・丸毛利恒・阿部弘蔵ら、箱館戦争は大鳥圭介・安藤太郎らがそれぞれ史料を提供している。もちろん、他にも、長州征伐、薩摩藩邸の焼き討ち、甲陽鎮撫隊の戦い、房総での撒兵隊の戦争、遊撃隊の箱根戦争、美加保丸の難船など、戦争関連の記事は非常に目に付く。

先述の旧幕府史談会員九十二名のうち十九名は、戊辰時に官軍と抗戦したか、脱走し抗戦しようとした経験を持つ旧幕臣・藩士であった。何と言っても雑誌刊行の支援者の中には榎本・大鳥の二人の重鎮がいたし、戸川残花自身が年少の身でありながら彰義隊に加わった経験を持っていた。朝敵・賊軍とされたのは遠く三十年前、明治国家体制が確立する中でそれなりの地位に付き自信を取り戻した彼らは、自らの過去をようやく語り出したのである。 『旧幕府』 は、そんな元抗戦者たちが自らの来歴を振り返り、歴史に位置づけ直そうとする上で、格好な発表の場となったといえる。

 第九号の告知欄には、次号からは 「衰運の幕府のみならず、隆盛の幕府をも記載」 したいと、幕末の記事だけでなく十一代将軍の時代にまでさかのぼり編集を行うとしているが、結局、その後も幕末関連の記事が誌面の多くを占めた。皮肉にも 『旧幕府』 は、今日では幕末の文献資料の豊富さで重宝されているわけであり、「衰運の幕府」時代に焦点を当てたからこそ後世にその史料的価値が高まったのである。 その中でも戊辰戦争関係の記事は最も豊かな部分である。

(復刻版解説 樋口雄彦著「雑誌『旧幕府』に集まった人々」より抜粋)

『旧幕府』主要執筆者紹介
執筆者以外に、談話者・筆記者・資料寄送者や没後に遺稿を掲載された者も含む
樋口雄彦
(今回の復刻に際し小社で新たに作成した総目次よりア行のみ紹介)
阿部弘蔵
 旧名二郎・杖策。槐陰と号す。緒方洪庵や武田成章に蘭学を学び、幕府の砲兵差図役並等をつとめた。彰義隊の結成に参加、隊名を発議した。文部省に奉職したほか、『修身説話』(1887年)・『寛永寺建碑始末』(1912年刊)などの著作があることが知られる。

荒井郁之助(1836〜1909)
 幕臣荒井清兵衛顕道の子。昌平黌・軍艦操練所で学んだ後、軍艦操練所教授に就任、幕府海軍の育成にあたる。戊辰戦争では榎本武揚らとともに脱走、蝦夷地政権では海軍奉行になった。敗戦後投獄されたが、釈放後には開拓使や内務省地理局に奉職、初代の中央気象台長になるなど、天文・測地・気象等の分野で貢献した。

安生順四郎(1847〜1928)
 下野国上都賀郡久野村(粟野町)の名主の子。勝海舟と親交があり、霞舟と号す。戸長・勧業委員・郡長などを歴任し、栃木県会議長に選ばれた。県下最初の牧牛場を開くなど産業振興に貢献したほか、1879年保晃会を設立しその副会長となり、日光の自然・文化財の保存に尽力した。旧幕府史談会会員。

安藤太郎(1846〜1924)
 鳥羽藩医安藤文沢の子。坪井芳洲・箕作秋坪に蘭学を学び、幕府の軍艦操練所に入る。榎本武揚の脱走艦隊に身を投じ箱館戦争に参加。外務省に奉職、岩倉使節団にも加わり、上海やハワイの総領事等を歴任した。クリスチャンでもあり、禁酒運動に尽力した。妻は荒井郁之助の妹。旧幕府史談会会員。

飯島半十郎(1841〜1901)
 虚心と号す。御広敷番頭などをつとめた幕臣飯島善蔵の子。幕末には騎兵差図役をつとめ、遊撃隊士として箱館戦争にも参加した。文部省編輯局で教科書編纂に従事し、1875年大槻磐渓らと洋々社を結成、雑誌『洋々社談』の編輯人となった。浮世絵研究の先駆者として知られ、『葛飾北斎伝』『浮世絵師歌川列伝』『浮世絵師便覧』などの著書がある。

石井研堂(1865〜1943)
 本名民司。福島県郡山の生まれ。1889年創刊の少年雑誌『小国民』の編集を担当、『自助的人物典型中村正直伝』(1907年刊)など少年向けの著作などを執筆した。『明治事物起原』(1908年刊)を著したほか、1924年には尾佐竹猛・吉野作造らと明治文化研究会を組織し、『明治文化全集』の編纂にも取り組み、明治文化史の研究家として知られる。

石黒務(1840〜1906)
 彦根藩士。旧名伝右衛門。湖東と号す。幕末には藩の内目付役・京都留守居役・評定加判などをつとめ、会津戦争にも従軍、大参事として藩幹部に列した。その後、浜松県権参事・静岡県大書記官を経て、福井県令・知事になった。旧幕府史談会会員。

井上正直(1825〜1904)
 浜松藩主。河内守。正春の子。奏者番・寺社奉行へ経て、1862年から1864年にかけ老中となり、横浜鎖港談判にあたる。1865年から1867年に老中に再任し、長州再征に従い大坂へ赴く。維新後、上総国に転封となり、鶴舞藩知事となった。
伊庭想太郎(1851〜1907)
 心形刀流宗家伊庭軍兵衛秀業の子。兄は遊撃隊を率い箱館戦争で戦死した伊庭八郎。静岡藩時代には沼津で中根淑・乙骨太郎乙らに師事した。東京で私塾を開き剣道などを教えたほか、旧幕臣が子弟の教育のために設立した育英黌(現東京農業大学)の第二代校長をつとめた。1901年東京市会議長星亨を刺殺、獄中で没した。旧幕府史談会会員。

巌本善治(1863〜1942)
 但馬国出石の生まれ。上京し中村正直の同人社や津田仙の学農社農学校に学び、キリスト教に入信。婦人解放に関心を寄せ、『女学雑誌』の編集を担当したほか、1887年明治女学校の教頭となり、女子教育界に影響を与えた。勝海舟に傾倒し、その聞き書きを『海舟余波』(1899年、1928年『海舟座談』と改題)として刊行した。旧幕府史談会会員。

江川英武(1856〜1933)
 通称太郎左衛門。韮山代官江川英龍(坦庵)の子。兄英敏の跡を継ぎ幼くして韮山代官となり、戊辰時には新政府に恭順、1869年韮山県知事となる。1871年岩倉使節団とともに渡米、1879年まで留学し工学を修めた。帰国後は内務省や大蔵省に奉職したが、韮山にもどり1886年から1891年まで伊豆学校長をつとめた。旧幕府史談会会員。

江原素六(1842〜1922)
 旧名鋳三郎・三介。昌平黌・講武所に学ぶ。戊辰戦争では撒兵隊を率い下総で官軍と戦った。静岡藩では少参事・軍事掛となり、沼津兵学校設立の中心となった。廃藩後も士族授産に取り組み、沼津中学校長や駿東郡長等を歴任。衆議院議員・貴族院議員として政界で活躍したほか、キリスト教界でも貢献。東京に麻布中学校を設立、校長をつとめた。

大久保余所五郎(1865〜1900)
 湖州と号す。彦根藩士の子として近江に生まれる。滋賀県下で教師をつとめた後、東京専門学校に入学。中退後、1895年精神社に主筆として入社、『井伊直弼伝』の編纂を託され、資料収集・執筆にあたる。他に『早稲田文学』に「本多佐渡守」「徳川家康」などの史伝を発表した。結核のため早逝。

大鳥圭介(1832〜1911)
 播磨国の村医の子として生まれる。大坂の緒方洪庵に入門し蘭学を修め、江戸に出てからは韮山代官江川家の家塾縄武館で教える。後幕臣に取り立てられ、幕府陸軍の近代化に尽くした。戊辰に際しては歩兵奉行として伝習隊を率いて関東・東北を転戦、蝦夷地政権では陸軍奉行に選ばれた。降伏後獄中ですごしたが、赦免後は開拓使・工部省等に奉職。日清戦争時には駐清公使・駐韓公使として外交工作を担当した。男爵。

岡崎撫松(1837〜1898)
 旧幕臣。名は規遵、通称藤左衛門。西江とも号す。本姓飯久保。1861年開市開港延期交渉のため派遣された竹内下野守一行に加わりヨーロッパに渡る。その後外国奉行並や兵庫奉行をつとめ、維新後は駅逓権大属・司法大録・司法一等属・広島裁判所判事・広島控訴裁判所判事・水戸始審裁判所判事などを歴任した。

小笠原長生(1867〜1958)
 老中・唐津藩主小笠原長行の子。海軍兵学校を卒業、日露戦争では大本営参謀の任にあった。東郷平八郎の私設秘書的な存在でもあり、軍務のほか東宮御学問所幹事・宮内省御用掛・学習院御用掛なども歴任した。海軍中将、子爵。

奥野昌綱(1823〜1910)
 幕臣竹内五左衛門の子。輪王寺宮に仕え、上野彰義隊の戦いに参加。その後、宣教師ヘボンと知り合い、和英辞典の編集を手伝う。1875年には宣教師ブラウンから受洗、以後、牧師としてキリスト教の布教に従事した。

尾高惇忠(1830〜1901)
 藍香と号す。武蔵国榛沢郡(埼玉県)の名主の子。彰義隊の結成に参加するが、脱退し振武軍に加わり官軍と戦う。静岡藩で勧業の仕事に従事した後、民部省・大蔵省に出仕、官営富岡製糸場の初代所長となった。渋沢栄一とは義兄弟の間柄。旧幕府史談会会員。

小田川彦一(1828〜1907)
 旧名彦助、俳号は莱仙堂鳳嶺。御賄御膳役をつとめた幕臣で、幕末には小筒組肝煎となり、維新後沼津に移住、静岡藩の郡方捕亡役に就任した。廃藩後は印旛・熊谷・群馬の諸県に奉職。沼津兵学校附属小学校や工部大学校出身の工学博士小田川全之はその息子。1884年海老名弾正から洗礼を受け、前橋教会や東京の新栄教会の執事・長老をつとめた。