村田清風の孫が、晋作への強烈な思いと、同時代人の鮮烈な印象によって書いた伝記 | |
高杉晋作 | |
村田 峰次郎 | |
マツノ書店 復刻版 ※原本は大正3年 民友社 | |
2002年刊行 A5判 上製 函入 310頁 パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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■村田峰次郎の『高杉晋作』はあらゆる「晋作伝」中のベストセラーとして知られています。昔は手垢のついた本書をよく古書店で見かけましたが、今は全く入手困難となり、このたび88年ぶりに復刻されるものです。 ■著者の村田峰次郎は、幕末長州藩立直しの祖・村田清風の孫としても知られている、防長史の権威です。 安政4年萩生まれ。山口明倫館に学び、明治17年、内閣で伊藤博文の憲法制定事務に参加。同23年「長周叢書』を刊行の後、毛利家に入り藩史編纂を主宰。同42年、防長史談会を発足。昭和20年没。主著『大村益次郎』『品川子爵伝』『防長近世史談』など。 |
『高杉晋作』 目次 |
序言 年譜 家祖 出生 時勢と改革 青年時代 松下塾入門 游学 師恩に酬ゆる最後の盡力 官武周旋 名家歴訪と外國行 尊攘主義 梅屋敷と御殿山 勤王烈士の遺骨改葬 剃髪して東行と號す 賀茂行幸と西蹄 奇兵隊の編成 堺町門の変と七卿落 京都動乱 亡命と投獄 馬關撰夷 長州征伐 黨議兩立 筑前潜伏 封帆樓の会見 内訌戦 藩論一致 大阪及讃岐行 長州再征 終焉 逸事 追遠表彰 解説・一坂太郎 |
村田峰次郎「高杉晋作」について 一坂 太郎 |
明治以来出版された高杉晋作の評伝のたぐいは、おそらく数十種を数えるだろう。 講談・小説を含めると、さらにその数は増える。この、大正3年(1914)に民友社から出版された村田峰次郎『高杉晋作』(以下本書とする)は、数ある晋作の評伝中でも、初期の部類に属すと言っていい。それ以前のまとまった晋作伝記は、明治26年の江島茂逸『高杉晋作伝入筑始末』(団々社)と渡辺修二郎『高杉晋作』(少年園)の2冊が思い浮かぶ程度だ。 当時はまだ『東行遺稿 上下』以外、晋作の史料は、ほとんど公刊されていなかった。『東行遺稿』は晋作二十年祭で出版された、主に漢詩を集めた和装本だが、その生涯を級密にたどるには役不足の感は否めない。 こうした時代に書かれた本書は、当時としては精一杯の労作だったに違いない。しかし現代から見ると、特に史料面で物足りないものを感じる。たとえば遊歴の道中日記「試撃行日譜」や、唯一の海外体験を記録した「遊清五録」も使われた形跡が無い。あるいは所々に収められた書簡類も、十分に生かされているとは言い難い。 むしろ、「高杉は近世稀に顕はれたる英傑にして、その行動の迩を見るに、天真欄漫、事みな機宜に当らざるなし、天下有為の壮者一たび之が伝記を誦せば、何人か必ず感奮興起せざるを得ん」といった、村田の晋作に対する強烈な思いこそが、本書最大の魅力である。4ぺージ以下には村田の祖父清風が若いころ、晋作の曾祖父春明に私淑した史実が紹介されている。この一事を見ても、村田にとり晋作は歴史上の人物の枠を越えた、身近な存在だったことがうかがえよう。 村田も、晋作にかんする様々な逸話を聞きながら育ったと思われる。晋作没後40数年しか経ておらず、人々の脳裏にその印象は鮮烈に残っていた。 例えば晋作が「同志の者は、何時戦没するや測り難し、皆互に予め生墳を築くこそ妙策なれ」と、下関桜山に共同墓地を開き、これが招魂場に発展したという話などは、驚かされる。史実とすれば「生墳」こそが招魂場創立の目的ということになり、神道史上においても特筆すべき文献だ。 あるいは「対帆楼の会見」の項では、「甲子十二月某日、馬関の対帆楼に於て高杉は西郷と重ねて会見す」とし、以下村田の持論が展開される。この両雄の会見の虚実に関しては『修訂防長回天史』(大正8年)をはじめ、今も否定的な意見が強い。しかし村田は、西郷の随行者黒田清綱からも話を聞いたとし「これ髄なる証跡にして、最早別に争ふへき事柄にあらざるべし」と、全面的に会見肯定の立場である。 本書出版から2年後の大正5年、晋作の50年祭が東京で盛大に行われた。その記念事業のひとつとして『東行先生遺文』が出版され、人々は初めて「書翰」「日記及手録」「詩歌文章」といった晋作の「生の声」に触れることになる(村田もまた、編纂委員の一人として名を連ねている)。本書は『遺文』出現以前、晋作伝記研究が到達していたレベルを示すもので、その格調高い文章と共に忘れてはならない名著であると言えよう。 (本書パンフレットより) |