木戸・大久保の日記と並ぶ維新史の第一級史料!
維新成立時は長州藩を代表する「顔」でありながら明治4年非業の死を遂げた巨人の全貌
広沢真臣日記
 日本史籍協会
  マツノ書店 復刻版
   2001年刊行 A5判 上製 函入 606頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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復刻に際して
■この復刻版は、日本史籍協会昭和6年発行の『廣澤真臣日記』を底本とし、東京大学出版会の昭和48年復刻版巻末にある「正誤表」に基づいて390ヵ所に及ぶ本文修正を施したものです。

■本書は入手可能な「広沢真臣関係史料」のすべてを網羅した「決定版」です。
復刻に際し、次のような資料を付しました。
@広沢真臣、生家跡、墓などの写真6点。
A日記の表紙及び中味の写真17点。
B大正10年刊、村田峰次郎著『参議廣澤真臣卿略伝』全文。
C国立国会図書館の作成になる広沢真臣宛書簡、広沢真臣書簡及び書類(意見書、履歴資料、長州藩関係書類)等の目録、及び広沢真臣略年譜。
D一坂太郎氏による「解説」

■広沢真臣は地味な存在であった上、本人の書いた文字が非常に読みにくいせいもあって活字化された史料は少なく、研究も進んでいないようです。今回の復刻が、廣澤復権の契機となることを願ってやみません。



 広沢実臣日記について
     一坂 太郎
 いまや故郷山口県においてすら忘れ去られた感のある広沢真臣だが、維新当時は長州藩を代表する「顔」であった。薩摩藩で言えば、西郷隆盛や大久保利通に匹敵する人物と言っていいだろう。にもかかわらず、まとまった伝記としては、大正10年に村田峯次郎『参議広沢真臣卿略伝』という30頁余りの小冊子が出版されているに過ぎない。
 広沢は明治元年1月3日、長州藩から初めて新政府に参与として送り込まれ、翌2年7月に参議となる。ところが明治4年1月8日、39歳で東京で暗殺された。官僚として生きた広沢の生涯には、木戸孝允や高杉晋作のような派手な「武勇伝」は確かに乏しい。研究者の食指が動かなかったのも、案外そんな所に起因するのかも知れない。

 日本史籍協会から昭和6年に翻刻された維新前後の広沢の日記には、戊辰戦争を経ながら新政府が樹立し、近代国家を目指して歩み始めた日本の基盤が確立されてゆく過程が生々しく記録されている。木戸・大久保の日記と並ぶ維新史の第一級史料である。日記の自筆原本は、昭和26年(一九五一)、広沢家から他の文書類と共に国立国会図書館憲政資料室に譲渡され、今日に至っている。
 日記の大半はいわゆる「府藩県三治制」時代の記録だ。新政府は明治元年閏4月21日、「地方ヲ分テ府藩県ト為シ府県ニ知事ヲ置キ藩ハ姑ク其旧ニ仍ル」と令した。これにより府県制を実施して知事・判事を置く他に、多くの大名による藩治を残すという矛盾を抱えることになる。こうした状況は、明治四年七月の廃藩置県により府県制が敷かれるまで続く。  このため政府の重鎮である広沢は、故郷山口藩の動向にも目を配らねばならなかった。たとえば明治2年から3年にかけて起こった諸隊の脱隊騒動に、東京の広沢たちがどう反応、対処したかも、日記からうかがうことが出来、興味深い。あるいは面倒見の良い男だったようで、同郷人たちが連日のように広沢のもとを訪ねている様子も分かる。

 このたびマツノ書店から復刻される『広沢真臣日記』は、初版にあった390カ所の誤読、誤植を藤井貞文博士作成の正誤表をもとに訂正。さらに多くの図版も加え、決定版の名に相応しい内容になっている。遅れに遅れた広沢真臣の研究、評価は、ここからスタートしなければならないだろう。
(本書パンフレットより)



 広沢真臣の人と業績
   日本史籍協会 藤井 貞文
 広沢真臣は、姓は藤原氏、諱は直温、後に真臣と改む。幼名を季之進。金吾、又は藤右衛門と称し、更に兵助と改めた。号を障岳と言う。天保4年12月29日に萩城下に生れた。同15年12月28日に同族波多野英蔵直忠の聟養子となり、その女の百合子と婚す。安政6年2月19日に直忠が病気で隠居したので家督を襲いだ。
 真臣は 幹が長大で、性は温良、質直。最も文学及び槍術の技に長じた。嘉永6年6月に米艦の来航に際し、初めて江戸に 役してより専ら藩務に精励し、遂にその枢機に参じた。元治元年の秋、時勢が大いに転換し、為に真臣は藩獄に繋がれたが、翌慶応元年2月に謹慎を解かれ、同四月四日には藩の内命で広沢藤右衛門と改名した。因に廣沢姓は曽て波多野氏の祖が相模国秦野の地に住し、広沢郷を領したに依ると謂う。是より幕吏との接衝に与り、更に討幕の事に当り、終に討幕の勅書を拝戴して帰藩した。
 慶応3年12月、王政復古の大号令が出づるや、藩命を以て上京し、翌明治元年正月には参与・徴士に任じ、翌2年4月には民部官副知事、7月には民部大輔となり、更に参議に任ぜられた。
 翌3年9月18日請願して永世広沢姓を称す。然るに同4年正月八日の夜半、3人の刺客が邸中に潜入して真臣を刺し、重傷を被る。療養遂に効なく、年三十九を以て薨じた。朝廷はその不幸を哀れみ、且つ多年の勲功を嘉みし、翌9日を以て正三位を贈り、金幣3000両を下賜せられた。而して官府はその兇賊を探索するも、容易に獲ず。朝廷は軫憂して、翌2月25日に詔を発し、之を厳索せしめらる。
 右大臣三条実美は大いに恐惶して「賊徒ヲ逃逸シ、既ニ五旬ニ及ヒ、未タ捕獲ニ不至、恐懼之事ニ候」云々とて、厳密に捜索し、速に之を捕獲して宸襟を安んじ奉るべしと訓令した。併しその賊は終に捕われず、その真相も杳として今日に至るも猶を明かではない。
 芝愛宕下の青松寺に葬ったが、後に世田谷区若林の大夫山に改葬した。即ち吉田松陰の墓畔に在る。而して遺髪を山口市吾妻山に埋めて霊社を建てた。明治12年12月27日に朝廷は生前の勲労を思食し、特旨を以てその子の金次郎を華族に列し、金壱万円を下賜し、同17年7月には伯爵を授けた。大正10年2月24日には従二位を追贈、特に神道碑の下賜あり、之を墓畔に建てた。死して余栄ありと謂うべきであろう。

 昭和6年11月に我が史籍協会が公刊した『広沢真臣日記』は、文久3年4月7日より明治4年正月5日、即ち真臣が遭難する3日前に至る間のもので、主として国事に活躍した時期の日記である。
(本書東京大学出版会 昭和48年復刻版「解題」より抜粋)