赤根武人、大楽源太郎とともに周防の僧月性に学んだ世良修蔵は、戊辰戦争に長州軍を率いて参加。
会津落城直前に惨殺さる。悲劇の志士の生涯を史料で描く。
世良修蔵
 谷林 博
 マツノ書店 復刻版 *原本は昭和49年 新人物往来社
   2001年刊行 A5判 上製 函入 252頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『世良修蔵』 目次
■ 世良修蔵の青春
 中司家に生まる/少年鶴吉/僧月性に学ぶ/益田氏の家臣となる/諸師につく/浦氏と克巳堂/梅田雲浜、阿月を訪う/息軒の「三計塾」塾長となる/師月性の死/藤森天山に学ぶ/加藤有隣を招く使者となる/木谷家の養子となる

■ 奇兵隊参加
 奇兵隊の結成/帰国/奇兵隊書記となる/世良の郷党教育/京都蛤御門の変/馬関の攘夷戦/三家老の自刃/高杉晋作の挙兵/周南志士たちの決起

■ 第二奇兵隊結成
 南奇兵隊の結成/第二奇兵隊軍監となる/光明寺事件/赤根事件に連座/世良氏を名乗る/第二奇兵隊の脱隊/大島口の戦い/大島郡を奪回/征長軍の敗退/三田尻の海軍局に入る/兵書の出版計画/建白書の起案/品川弥二郎と上京/討幕の密書下る/王政復古なる/有栖川宮に進言

■ 戊辰戦争・東北篇
 鳥羽伏見の戦い/東征軍の発令/世良参謀となる/松平容保の保守主義/仙台藩の内紛/会津藩の防衛/庄内藩の出兵/仙台藩の尊攘、保守派/仙台藩の出兵/総督岩沼に転陣/沢副総督の羽州入り

■ 会津の世良修蔵
 世良の福島入り/会津・仙台藩の内通/会津討入り/仙台藩の降伏使/総督府の内情/会津・庄内同盟成る/関宿の会談/仙台藩の進撃/国境の紛争/会津藩の嘆願/奥羽同盟の結成/会津嘆願書を却下

■ 世良修蔵暗殺
 世良狙わる/醍醐・世良参謀の動き/暗殺の密議/世良惨殺さる/月心寺跡に葬る/薩長藩士等殺害さる/奥羽列藩同盟の崩壊/会津・庄内藩の降伏/東北諸藩主の処分/但木土佐らの処刑/瀬上主膳らの釈放/金沢屋と世良/削りとられた墓碑銘/妻千恵の末路/世良の遺族/詩歌と横笛/故郷における世良の顕彰/あとがき



世良修蔵のこと
▼世良は天保六年、大島郡椋野村 中司八郎衛門の三男として生まれた。(後に世良姓を名乗る)大畠村で海防僧月性の時習館に学び、江戸では儒者安井息軒の三計塾塾長をつとめ、文久三年頃から高杉晋作と交わり、奇兵隊書記となって活躍した。
▼第二奇兵隊が結成され石城山に駐屯したとき、世良は軍監となった。そして慶応二年六月、幕府の第二次長州征伐に際して奥羽鎮撫総督府の参謀となり、仙台より福島に入った。
▼奥羽諸藩から会津藩主松平容保の嘆願書が提出されたが、世良はこれを拒否し仙台藩士に恨まれ、明治元年閏四月二十日福島の宿舎において暗殺された。ときに三十四歳であった。
▼白虎隊が神話化されている会津若松地方では、世良は今もなお¢蛻ォ人とされている。しかし本書を読めば、いわゆる学者タイプの世良は「火中の栗を拾わされた」明治政府誕生のための捨石≠ノ過ぎなかったことがよくわかる。

復刻にあたって
▼本書は新人物往来社の「伝記シリーズ」で昭和四十九年に刊行されました。今回の復刻に際しては、B6判の原本をA5判に拡大して、格調高く、しかも読みやすい本になりました。
▼大仏次郎、司馬遼太郎、早乙女貢、徳富蘇峰などの著作で悪人扱いされてきた世良の生涯を、新しく発掘した史料と実地踏査による遺族などからの聞き取りによって描き出した、唯一の「世良修蔵伝」として高く評価されています。
▼上記目次の通り非常に充実した内容で、世良修蔵の生涯はもとより「第二奇兵隊」や「四境の戦・大島口」など、これまであまり省みられなかった周防部における維新史解明の手がかりとしても、ぜひお勧めしたい本です。
▼著者は大正十三年柳井市生れ。十八年も在任された市立柳井図書館長を定年退職の翌昭和五十七年、病のため急逝されました。実直な学者で、郷土史家としては『柳井市史』編纂委員長などを務め、著書には『青年時代の国木田独歩』『児玉花外その詩と人生』ほかもあります。



 『世良修蔵』の執筆を終えて
     柳井市立柳井図書館長 谷林 博
 山口県における明治維新の志士として二つの系統があった。長門萩の吉田松陰と、周防遠崎村の僧月性の門流である。
 松陰には久坂、高杉、山県、伊藤などと有名になった者が多い。その点月性門では、赤禰、世良、大楽などと、いずれも非業な最後をとげている。このほか周防部には富永有隣、白井小助などもいたが、いずれも郷里において不遇な一生を送った。その原因として、毛利氏の直臣でなく陪臣であったことや、本藩萩が政治の指導権をとったことなどがあげられよう。
 世良は月性門で重きをなしていたが「戊辰戦争のとき東北で暗殺された」というだけで、その業績は県内でもあまり知られていない。
 それどころか小説、演劇などでは悪役にされている。実直で学者タイプの彼は、東北においては、ひどくゆがめられた人物となっているのである。世良としては戊辰戦争が出番であっただけに、東北には史料が多いが、その前半についてはこれまでほとんど不明であった。

 私が本書の執筆に五年の年月を要したのも、史料の採訪に手間どったからであった。幸い私は世良の郷里の大島とは近く、彼が随臣した浦家は柳井市内にあって地縁に恵まれていた。
 私は昭和四十七年に世良の遺跡を求めて仙台、福島、白石などを訪問した。その地において但木土佐、玉虫左太夫、三好監物など、それぞれ主家のために殉じた人物たちを知ることができた。
 東北は桜の満開の季節であった。はるばると白石市の陣馬山にある世良の墓を訪ねた。桜の花の下にあった世良主従の墓の字は所々を削り取られており、私は一世紀を経てその憎しみの深さを知った。
 ついで白石城主の末裔、片倉信光氏を訪問した。氏は官賊の名のもとに別れて戦い、その中心人物として、個人的に世良は気の毒な人であると言われた。これは予期せぬ言葉であって、深い感銘を覚えた。
 私はつとめて、第三者の冷静な目をもって世良を描き出そうとしたが、果たしてそうはゆかなかった、これもやはり同郷意識がもたらしたものであろう。
 それはともかくとして、山口県人の世良知らず、東北人の世良識らずには、幾分か応えたつもりでいる。
(本書「あとがき」「著者のことば」より抜粋)