萩出身、当代随一の評論家が、山口県の歴史・人物・風土をはじめて世に問う奇書
長周游覧記
 横山 健堂
 マツノ書店 復刻版 *原本は昭和5年
   2000年刊行 A5判 上製 函入 430頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
    ※ 価格・在庫状況につきましてはHPよりご確認ください。
マツノ書店ホームページへ




 横山健堂の人と業績
     紀田 順一郎
 『長周遊覧記』は1930年(昭5)に刊行された山口県に関する地誌である。著者は明治から昭和戦中にかけて人物評論・伝記・文化史などの分野において、多彩な活動を行った横山健堂である。一口に地誌といっても、その内容は有史以前の歴史から現代風俗にわたる広範なもので、叙述のスタイルも時に紀行風にして軽妙闊達、時に考証随筆風にして立意卓抜、遊覧記という標題にふさわしく興趣自ら湧出するがごとき文章は、まさに名著と呼ぶにふさわしい。

 横山健堂の名は近来数点の著書、編書が復刻され、研究者には知られる機会に恵まれているものの、一般読書界には馴染みが薄いと思われるので、その経歴を紹介しながら、業績にふれることとしたい。
 健堂は本名達三で、1871年(明4)12月、山口県井荻町に生まれた。松下村塾の出身者である父幾太の薫陶により、早くから歴史に関心を抱き、山口高等学校を経て1895年(明28)に東京帝国大学国史科に入り、近世教育史を専攻、卒業後は大学院に進んだが、そのかたわら國學院の国史科の講師になった(のちに教授)。そのほか教員生活の経歴としては、1901年(明34)から三年間、佐賀県や大阪府の中学校の教員をつとめたり、越えて1935年(昭10)には駒沢大学の教授になったりしている。1943年(昭18)12月、72歳で没した。1983年(昭58)、下関市吉田町の東行庵(高杉晋作の墓所)に、有志の手で顕彰碑が建てられている。
 教育界に関わったとはいえ、健堂の本領はあくまで文筆活動にあり、「読売新聞」や「毎日新聞」に黒頭巾や火山楼の筆名で人物評論をはじめ史伝、随筆、紀行などを精力的に発表し、盛名を博した(1913年からは毎日新聞の記者となっている)。とくに1908年(明41)より「読売新聞」に連載した『新人国記』は、各県、地方別に著名人の月旦を試みた歯切れのよいコラムとして一世を風靡、健堂といえば人物評論という評価を獲得せしめた。
 健堂の著作に人物評論や伝記が多いのはこのためで、『現代人物競』(1908)『現代人物管見』(1910)『新人国記』(1911)『旧藩と新人物』(同)『大正乃木』(1912)『人物研究と史論』(1913)『高杉晋作』(1916)『大将東郷』(1915)『伯大隈』(同)『大西郷』(同)『峯間鹿水伝』(1933)『嘉納先生伝』(1944)『松浦武四郎』(同)『大西郷兄弟』(同)などがあり、ほかに『高木正午自叙伝』(1932)のような編纂書まで加えると、枚挙にいとまない。

 その一方で教育史・文化史に関する大著をも手がけ、『日本近世教育史』(1904)『教育史余材』(1908)『文部大臣を中心として評論せる日本教育の変遷』(1914)『師範学校の異彩ある人物』(1933)『日本相撲史』(1943)『日本武道史』(同)などは、他に類書を求めがたい。毛利藩史や下関市史にも関わっていたという。
 このような業績の全体像から見ると、地誌紀行は分量的には少ないとはいえ、山口県に関する『防長の精華』と本書『長周游覧記』の二冊があることにより、千鈞の重みを加えている。とくに本書のごときは健堂の円熟期に属する佳作であり、歴史紀行としてもきわめて特色に富んだものといえる。
 本書は1930年(昭5)7月、東京小石川区(現在の文京区)の郷土出版社から上梓された。序文からは、約2年間にわたって長州・周防を実地調査し、その人物、山水、風景、地方粋などについての著者の蘊蓄をきわめたもの、という自負が窺われる。

 健堂の地誌の面白さは、全体像の的確かつ独特な把握にある。たとえば萩という都市の成立を論じて、つぎのようにいう(新字体、傍点略)。
 長門峡を流れ出て北海に朝宗する阿武川の三角洲に出来た都市が萩である。その一面は海に、三面は河にとりまかれ、古来、文学的に、八江萩とも称へ、その八景といふは、皆、水畔にある。萩の旧域、指月山は、もとは島であったことは明らかだ。その島に向かって、阿武川の土砂が堆積して、三角洲を形成するに至つたのである。関ケ原戦後、毛利氏の築城以前には、やはり此の城山に拠った小さい領主があつたが、要するに、此の海岸は、荒涼たる漁村に過ぎなかつた。(中略)萩の名の起源は未だ詳かでない。河の外の、主なる村が、東椿郷と西椿郷とである。此の椿が、ハギに転訛したのだといふ説があるが、わたくしは疑う。萩は、とにかく毛利氏に由って創造された都市である。関ケ原役の、尤も意義ある副産物の一つは、萩の創造でなければならぬ。(詩の国、水郷の萩町)
 ある地方の特色を述べるにあたり、上空をあたかもヘリコプターや飛行機の窓から見るようにきわめて大づかみに鳥瞰し、そこから東西南北の土地勘を得ながら、一挙に歴史的展望までを獲得するという方法は、明治の地誌研究者の独擅場で、吉田東伍の『大日本地名辞書』のごときはその典型であろう。現代の地誌やガイドブックの類が、まず政治経済、産業、文化等の特色を並べたてるのはいいが、ややもすれば全体像がおろそかにされがちで、その土地の具体的な輪郭を把握し難いように思うのは私だけだろうか。
 このような特色は、同じ章の地質学的な特色を説明した箇所にも窺えるし、「岩国と錦帯橋」「河豚の情趣」などにもよくあらわれている。とくに河豚の刺身を大皿に盛った美観を讃える箇所は、グルメ随筆はこのように書くべしという見本のようである。
 史論、史伝的な要素はいうに及ばず、何よりも本書が強い印象を残すのは、著者の強烈な愛郷心にほかならない。巻頭の「若し長州が維新の雄藩たらざりせば、長州は風景国として、天下に持て囃やされてゐたであらう。長州の自然趣味が今まで、ひろく世間に理解されなかつたのは、余りに政治上に知られたからである」という前提は、他地方からすれば些か意表をつかれる性質のものであるが、郷土意識から出た普遍的な感情とすれば微笑ましく、読者をただちに納得させるものがある。
 ここでいう「自然趣味」とは風光の美しさ、風物のめずらしさを愛する心というニュアンスをも含んでいるように思われる。「長周の自然趣味を、最初に鼓吹したのは、山陽、竹田の二人である」「長州趣味が大に顕はるゝに至つたのは、長州が幕末、尊王攘夷の舞台となり、それに天下の浪人を長州に集合せしめたることが、画期的に有効であつたのである」――というとき、この趣味ということばの用い方はまったく独特のニュアンスを含んでいるといわなければならない。

 健堂が多趣味の人であったことは、『趣味の人』(1911)『趣味』(1912)の二著をまつまでもない。その紀行を見ても、あらゆる事柄に関心を持ち、興趣を覚える性格であることが窺える。単に名所を尋訪するだけでなく、愛称までつけてしまう。本書においても青海島を「海上アルプス」と命名したり、晩年に滞在した川棚温泉の付近を「月の松原」と命名したという挿話があるが、これも趣味性のあらわれといえないだろうか。
 黒頭巾時代に挿絵を担当した岡落葉(画家)によると、健堂は囲碁が初段に近く、相撲、野球、テニスほか、当時のめずらしいスポーツには何でも手を出した。食物も何でも食べた。あるとき寄せ鍋のうまいところへ案内したら、「こんなうまいものがあるとは知らなかった」と、以来だれに会っても寄せ鍋をおごったという(「黒頭巾横山健堂氏」「日本古書通信」1955・10)。趣味人特有の凝り性が窺えるが、このような性格が本書を通常の紀行書とはひと味もふた味も違ったものとしていることは確かである。
 健堂における趣味とは、人生に対する積極性や、生き生きとした知的関心を前提としているように思われる。それが彼の仕事に眺望をもたらし、開かれた観点や知識を獲得することにもつながっていたのであろう。
 ちなみに、岡の回想に健堂の仕事ぶりを伝えている箇所があるのは興味深い。木内宗吾の伝記を書くために成田市に滞在した際、毎日成田図書館から給仕が運んでくる大量の文献を、机上に堆く積み上げ、朝から午後三時ごろまでかかって目を通すのであるが、それが十行並び下る勢いで一瀉千里に読み下す。しかも要点はちゃんと掴んでいるのには感心させられたという。
 このような健堂の業績をたどってみるにつけても、戦後の文筆家にはあまり例を見ないタイプであることがわかる。しいていえば在野的な視点による人物評論や紀行をよくし、勢いのよい、見立てや比喩を多用した文体で人気を博した点で、大宅壮一(1900〜1970)を想起させる程度であろうか。大宅には最晩年の『炎は流れる』をはじめ、史的な主題の文章も多いことは周知の通りである。

 ここに一言、研究者の注意を促しておきたいことは、大宅壮一にしても横山健堂にしても、その執筆態度はすこぶる学究的であり、文献を重視していること、中途半端な学者の比ではないことである。大宅はついに雑誌の図書館(大宅文庫)まで創設するにいたったほどだし、横山の文献博捜の姿勢にも学ぶべき点が多い。しかるに両者が学問的に評価される機会はきわめて乏しいのは遺憾としなければならない。
 とくに健堂の場合、右に挙げた『日本近世教育史』『師範学校の異彩ある人物』『日本相撲史』『日本武道史』など教育史・文化史に関する四冊は、現時点から見て独創的な主題や資料性は高く評価さるべきであるが、標準的な歴史事典から健堂の名は完全に無視されているのが実状である。
 健堂は戦前の史家であるから、研究対象とした人物をめぐって若干の時代的制約が指摘されるが、伝記において松浦武四郎や高杉晋作らをとりあげた先進性は高く評価さるべきであるし、人物の把握や造形性においては現代の伝記作家をしのぐものさえ窺われる。文化史の力量も驚異的で、たとえば『日本武道史』の第六章「徳川時代の柔道文学」などは、そのユニークな着想といい、資料性といい、追随する者を見ない。
 こうした主題的な評価と並んで、健堂の魅力が作品全体に横溢する文章の躍動感にあることは、何人も否定できないであろう。議論簡錬、警世痛快の言湧躍し、趣味自ら深しとはこのことで、天下有用の学としての歴史を奉じる戦前の学者の面目躍如たるものを感ぜずにはいられない。

 近年、教育史の分野において健堂の著作が復刻されるのを見受けるが、今回はからずも横山健堂の代表的著作の一つ『長州游覧記』が復刻されることにより、この不世出の文筆家を史家として再評価する機運ともなることを期待したいものである。
(本書パンフレットより)


博覧強記のふるさと歴史紀行 〜横山健堂の名著『長周游覧記』復刻をよろこぶ〜
    古川 薫
 『長周游覧記』の著者横山健堂は、明治5年(1872)、萩に生まれた。旧制山口高等学校から束京帝国大学国史科に進学、卒業後は読売新間,毎日新聞記者を経て、駒沢大学・国学院大学教授として教壇に立った。昭和18年(1943)東京で没するまで、終生健筆をふるい、黒頭巾・火山楼の別号でもよく知られた。本名達三。詩文の才は吉田松陰門下だった父横山幾太ゆずりであろう。漢文を基調として、短句をつらね短節に切る独特の文体で『人国記』の復活を図った『新人国記』や「中央公論」連載の人物評論を提げて文章界に確乎とした地歩を占め、以後『旧藩と新人物』『文壇人国記』『日本教育史』『人物研究と史論』『現代人物管見』など数多くの名著を遣した。『吉田松陰』『高杉晋作』『大西郷』など幕末維新への深い造詣に基づく評伝も多く、また特に『防長の精華』をはじめ山口県に関する著作によって、広く郷土の紹介に努めたことも忘れ得ない。

 本書『長周游覧記』(昭和5年・東京郷土研究社刊)は、史跡・名勝を中心とした探訪記だが、もちろん単なるガイド・ブックではない。このばあい萩出身の人としては普通「長州游覧記」ともなるところだが、長周(長門・周防)と公平に範囲を広げたところにも硬骨の文人としての見識をしめしている。
 東は岩国から西は下関まで記述の密度は県内各地域に行き渡っているが、紙数がないので、私が暮らしている下関周辺を例にとって内容の一部を紹介しよう。まず長崎オランダ商館のカピタンが江戸参府の途中下関に立ち寄ったときのことも評述され、「ヘンドリック、ドーフが題贅した富岳図の南画一幅がある。これこそ日蘭交流史上の珍材料であり、欧州人が描いた南画として吾邦に於ける文化史上の国宝だ」といった意味のことが書かれている。日蘭交流400年の今年、健堂の筆はちっとも古ぴていないのである。
 歳月をかけた踏査の努力もうかがわれ、健堂自身のツメ跡もさりげなく遺されている。たとえば青梅島のキャッチ・フレーズが「海上アルブス」となったのは、健堂の命名によるものだということを本書「海上アルプスの青海島(山口県の三大奇勝)」しゃくなげの項で知った。
 また長府の功山寺にある鎌倉期の観音堂(仏殿)の格天井にはしやくなげの絵が描かれている。これは寺の住職に「人格ある画家の揮毫を」と頼まれた健堂が懇意にしている丸山晩霞−信濃の人、渡欧の後太平洋画会創立に参加した昭和期の著名な水彩画家(新潮日本人名辞典)−を東京からつれてきて、ヒマラヤの石楠花数十種を満開にした構図に仕上げてもらったのだという。その経緯は高杉普作挙兵を語った功山寺の章の末尾に書き添えられている。

 『長周游覧記』はかなりの比重で歴史紀行としての内容を備えており、博覧強記の上にさらに精査された資料を縦横無尽に駆使した史話が平明詳細につめこまれていて興味がつきない。私などは、何かのときには図書館で『長周游覧記』を借りてきてネタ本にさせてもらったこともしばしばだった。復刻されると聞いて、わざわざ図書館に足をはこぶ必要がなくなったとよろこんでいるだけではない。すでに稀覯本とされてきた本書を、蔵書に加えられることを自信をもってお薦めする次第だ。
(本書パンフレットより)